嫌韓という牢獄

多分「嫌韓の人」に捕捉されたと思う。面倒なのは彼らがいっけん紳士風に近づいてくるところだ。面倒くさいので先手を打っておきたいのだが、多分この手の人たちは長い文章は読まないんだろうなと考えてしまう。端的にいうと「面倒で厄介だな」という恐れを抱いているところだ。しかし、これについて「なぜ恐れるのだろう」と考えて、別の視点が広がった。人はなぜ恐れるのか。

韓国を引き合いに出して「学べ」というと怒り出す人がいる。どういわけか「韓国を持ち上げる」と日本を貶めたことになるという思考が自動的に働くらしい。今回はKBSの番組を観察対象に使って「かつての日本の精神を思い出せ」と言ったのでそれが気に入らないのかもしれない。

もちろん、韓国嫌いの人にも理解できる点はある。例えば、竹島をめぐる動きにはイライラさせられる。だが、実際の韓国人を知ると反日運動の別の側面がわかる。たいていの韓国人留学生は自分たちだけで小集団を作り「韓国語は難しいから」などと言って日本人が片言の韓国語を話すと驚いたりする。これは日本人が外国人に「日本語うまいですね」といって嫌な顔をされるのに似ている。だが、彼らは他国に関心がないだけで反日ではない。単に内輪で盛り上がるだけの人が多い。その意味では反日運動も内輪の盛り上がり以上の意味はないのではないかと思う。反日以外に結びつける材料がない人がいるのだろう。

ただ、嫌韓の人が気にしているのは反日運動ではないかもしれないとも思う。彼らの頭の中には中華思想の様な国際序列概念があり、韓国は一つの外国であるという主張は彼らの世界観とコンフリクトを起こすのだろう。ある意味韓国人がかつて持っていた「小中華思想」に似ている。韓国は小中華思想に固執して、実際には清の実力が凋落している現実を直視せず「西洋の優れた技術に学ばずとも中国について行きさえすれば安泰」だと考えた。「科外の地」であるヨーロッパやいち早く変化した日本を認めてしまうことは彼らにはどうしてもできなかったのである。

だが、日本人が持っているアメリカを中心とした中華思想には最初から破綻がある。第一にアメリカに日本を統治し保護する意欲はない。せいぜい既得権を利用しようと考えているだけであり、時には貿易のライバルとして位置付けられることさえある。また、アメリカは民主主義の国なのでこれを分離する必要がある。このために強い軍事大国であるアメリカと憲法を<押し付けた>アメリカを分離して理解しようという傾向がある。日本のアメリカを中心とした中華思想家が憲法をいじりたがるのはこのためなのだが、そもそもそんな構造はない。だから、彼らの憲法案はいつまで経っても形作られないのであり、逆にいったん憲法をいじり始めたらそれは止まらなくなるだろう。いくら憲法を改正して内閣に職権を集めても日本がアメリカの第一の子分になることなどできない。彼らにそのつもりがないからだ。

ではなぜ、日本は小中華思想にこだわる必要があったのだろうか。この小中華思想は、アジアの中に西側先進国が日本しかなかった時代を模式化したものであると考えられる。これが崩れてしまいそうだという懸念があるのではないだろうか。だから、思想を強化し「仕組みを変えること」で乗り切ろうとしているのだろう。

もう一つ考えられるのは普通の人たちの怒りである。普通の人たちは一生懸命に会社に貢献し、家族のために家を建てて働いてきた。少しでも休むことは脱落を意味する。脱落は死と同じである。しかし、それが報われることがなく、崩れ去る恐怖にさえさらされている。もっとも目につくのが多様化を叫び男性中心の社会に「挑戦」しようという人たちだろう。人々がその様な恐れを持った時「あの人たちよりはましなのだ」という存在を作っておきたい。そうした感情を満足させるために必要なのは脱落した人や正規とは認められない人たちなのだろう。

普通の人たちが恐れるのは「脱落する恐怖」である。今いる地位から転落したら全てを失い社会の最下層として生きて行かなければならない。人生というのは脱落があるだけの片道切符であるのだからしがみついて行かなければならないと考えるわけである。そして、私たちは実際にそういう社会を形作っているので彼らの恐れは自己実現する可能性が高い。

その意味では国レベルでの「アメリカの様な大きな国家になんとしてでもついて行かなければならに」という恐怖心と「脱落した人たちを立てて自分たちの普通さを確認せざるをえない」という態度には共通点がある。彼らは変化することを失うことと捉えて恐れているということになる。その恐怖を乗り越えるために他人の人生を破壊する道を選ぶのだ。

ここで考えるべきことが二つある。一つは普通とは何だろうかということと、普通から逸脱することは失敗なのだろうかということである。もちろんその様な見方はできるし、そういう社会も作れる。が、但し書もつく。

日本は職人社会から出発し、製造業を中心とした国家体制を作ってきた。一生をかけて一つの技術を磨いてゆくのがよいとされる世界である。ただ、この体制はもはやなくなりつつある。例えば、自動車産業は内燃機関から電気に変わると産業構造自体がガラリと変わってしまうことが予測される。そのうえにサービス産業が主流になりつつある。これはもっと変化が厳しい業態である。つまり、変わってゆくことが求められる世界になりつつあるのである。

普通というのはいわば過去のスタンダードだが、これが一生変わらないという時代は確かにあった。戦後七十年のうち前半の三十五年程度箱の様な時代だったのかもしれない。ただ、これはなくなりつつある。つまり普通が溶解して常に変化を求められる時代になってきているということがいえるのではないだろうか。

変わらないことを求められていた人たちにとってみれば変化というのはほぼ「死」に等しいわけだが、一旦それを体験した人は「残念ながらそのあとも人生は続く」という現実に直面することになる。ショックな状態を体験する人もいるだろうが、そのあと人間はある意味不幸なことかもしれないが「再び考える」ことを始めてしまう。諦めてそこで人生を終わらせることはできないようになっている。それができるのは神様だけである。脱落が怖いのはまだ脱落していない人であって、一旦脱落を経験したことがある人やそもそも最初から「正規ではない」という状態に置かれている人にとってはそれは単なる変化に過ぎない。単なる変化なのだから「普通でない人」をおいて変化を拒否する理由は何もない。

このように見方を変えると、これまで見てきた「村落」の問題が少し違った形で見えてくる。例えば相撲は国際化して変化することができる環境にあったが、結局「変わらない」ことを選んだ。そのために外国籍の横綱たちは自分たちの地位を守るために休むことが増え、けが人も続出している。日本大学もガバナンスを変えることで生まれ変わることはできたのだろうが、結局変わらない道を選びつつある。大学としての競争力は確実に落ちるだろう。さらにアマチュアのボクシング連盟は反社会的勢力に連座したとは思われたくないが過去を清算して新しくやり直そうとは考えていない。彼らは今までの村を守ることで周囲との間に壁を作ろうとしている。そして、世間からずれて過疎化していってしまうのである。その過程で誰もが権力を集中させて大きくなろうと試みる。

日本も憲法を変えて内閣に権力を集中させる道を選ぶことができる。確かに村は守られるかもしれないがそれは変化を拒絶して衰退するという道になっている。衰退すればするほど「もっと強くならねば」といって国民に無理を強要することになるだろう。そして、それを正当化するためにはどうしても「敵」や「アンダークラス」の様なものが必要なのである。

「アンダークラス」を作るということは次々と普通でない人たちを名指しして自分の代わりに突き落とすということなのだが、それで村に残った人たちの気持ちが収まることはない。それは自分の身を切り落として小さくなっているのと同じことだからだ。不安はなくならないのだから、最後には脳だけを残せば生きて行けるのかそれとも心臓だけあれば人間なのかという議論をすることになるだろう。

一旦脱落した人にその不安はない。確かにその時点ではもっとも弱い人なのかもしれないのだが、そこで考えることさえやめなければ、少なくとも変化することはできる。人間は多くの動物と違って環境変化を察知してそれに対応することができる生き物である。そしてそのために社会協力をするという能力を与えられている。これがホモサピエンスのサピエンスたる由来だろう。ここで進化論の最新の知見が生きてくる。生き残るものはもっとも優れたものやもっとも大きなものではなく、環境に変化できたものなのである。そしてそれは戦争で全てを失った結果「変化して学び直そう」と考えた人たちはその戦略が間違っていないことを証明しているのだ。

つまり、脱落した人はその意味では幸いな人ということができる。もはや普通という牢獄にこだわる必要はないからである。

 

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