日本人が人権をイマイチ尊重できないわけ

このところ、あるツイートをきっかけに人権について考えることが多くなった。「天賦人権がそんなにえらいなら守ってもらえる様にせいぜい神様にでもお願いしろ」というような意味のことが書いてあったのだ。その昔迫害されたキリスト教徒が言われた言葉で、遠藤周作の著作にも同じ様なセリフがあったと思う。

こういう人に天賦人権の大切さを考えようとすると、日本ではほぼ詰んでしまうことになる。なぜならば日本人は内的規範を一切持たずないからである。内的規範と言ってわかりにくければ良心がないと言って良い。そして、他人が個人的に良心を持つことも認められない。だから、みんなが幸せで暮らせる世の中がいい世の中なのだと信じていますなどと言っても「ふーん」と言われるだけだ。そもそも社会と個人に関係があると思っている人などいないので「この人はありもしない社会というものにどうして関心を寄せるのだろう」と不思議がられるだけであろう。こうした人ほど自分が得をするためなら進んで「公共」について語りたがるのだから日本というのは不思議な国である。

人権に関しては個人的な鉄板ネタを持っている。昔、日本人だからだという理由でルームメイトに住んでいたところを追い出されたことがあるのだ。

まだ9.11前だったが、当時からイスラム系の人たちには社会から阻害されているという意識があったようだ。特にアメリカで生まれたイスラム教徒はもはや移民ではないのに顔の色や信仰で差別されることに大いに憤っていた。そこでイスラム教徒は互助的な組織を作り始める。だが、仲間を作るということは他人を排除するということである。そしてその他人は強い白人にはならない。彼らは仲間内で固まり「仲間を守るためなら何をやっても良い」と考える。仲間の中に「ここに住みたい」という人がいたようだ。そこで英語のできない非白人であるということで目をつけられたのだ。

そこで彼らが作り出したロジックは「日本人はたくさんの神様を信じているとんでもない人たちだ」というものだった。これをあまり教育のない白人のアパート管理人(janitorという)に吹き込んだ。そこでいじめの様な状態になり半月で出て行けという話になったのである。なぜか「便利だから車は置いて行け」と言われた。

ここから「日本人である」という本人が選択した属性でないもので判断されるのはとても怖いことだなと思う。また、無知な人が持っているステレオタイピングの恐ろしさもわかる。さらに社会に溶け込もうとしているのに言語ができないということだけで権利が主張できないという悔しさも体験した。自分で同じ経験をしたいとは思わないし、他の誰かも同じ様な経験をすべきではないと思う。

だが、一方でマイノリティがかわいそうだから人権を守るべきだと言われると疑問に思うことがある。マイノリティも人権が守られないとなると必死になる。そして被害者から加害者に変わることがあるのだ。こうした被害者意識はやがてアメリカの中にネットワークを作り上げて9.11のような事件を起こすことになる。彼らは普段挑戦できない白人社会に「飛行機をぶち込んだ」のである。こうして最終的には「誰がよくて誰が悪い」ということがわからない状態が生まれる。いったん社会が分裂するとそれを再統合するのはとても難しい。

こうした状態を防ごうとすると、「人々は人種に関係なく評価されるべきだ」という嘘を置かざるをえなくなる。天賦人権というのは嘘なのだが、そうした嘘でも置かない限り社会が成り立たなくなってしまうのだ。言い換えれば人々は「人権は嘘である」ということを薄々知っており、それでも守っている。アメリカではこのため履歴書に写真を添付することが禁止されている。それでも黒人とわかるファーストネームだと採用率が下がるそうである。人種差別があるのにないふりをするのがアメリカだ。

このように「これをあることにしないと社会がめちゃくちゃになる」から人権が守られるという側面がある。綺麗事なので一人に認めてしまうといろいろな人に認めなければならなくなる。

日本はもともと単一民族の国でありこうしためちゃくちゃな状態にはならないだろうと考える人もいるかもしれない。社会がある種の偽善を前提にしている状態も知らないので、日本人に天賦人権を守らないと社会がめちゃくちゃになりかねませんよなどと言っても説得力はない。

さらに、日本人は「普通でない」という自己認識を持つと自らを潰してしまう傾向がある。最初に出したイスラム教徒が加害者に転じたのは彼らが「自分たちにも幸せになる権利がある」と考えたからなのだろう。日本人の場合はそれが恥になってしまう。よく考えると人口の半分(つまり女性)は確実に差別の対象になっているのだが「自分は女性という劣っている存在である」とか「怒ってばかりいる女性は女性らしくない」とか「男性社会にうまく馴染めなかった女性が大騒ぎするのだ」と言ってマウンティングする人たちのおかげで、こうした差別がおおっぴらにまかり通る。ヨーロッパでは性犯罪にあった女性は保護されて当然だが、日本では逆に女性から「女性としての生き方がまずい」などと言われて嘲笑されてしまう。そしてそれに加担する人の中にも女性がいて、その人たちは優先的に議員になれたりする。

仮に女性の権利意識が高ければ「女性だけ」の会社や組織ができて男性を逆差別し始めるだろう。これは人権が崩れつつある社会では実はよく起こっていることである。生まれた時から男女機会均等法があったという時代の人が出てくれば「ネイティブな世代」の登場ということになるだろう。だが、実際には「子供を作らない」という非協力的な選択で社会を衰退させるという状態になっている。もちろん子育ては男女が分担してやるべきなのだろうが、男性はどんなに頑張っても子供を生むことはできないのである。

それまでの間は「人権がなくても割となんとかなる」のは確かなのだが、今度は逆のことが起こる。これまで散々見てきたことだが、扉を閉めて村落の均質性を守ることはできる。だが、約束事が多くなり窮屈な組織ができてしまう。その結果としていじめが蔓延したり、ルールを書き換えて嘘が横行したりする。組織は村落となり内側から重みで潰れて行くというのが、去年の年末あたりから観察してきた結果である。さらに、そんな窮屈な組織はいやだといって外から人が入ってこなくなるか、社会の規範とぶつかりガバナンスそのものが崩壊したりする。こうしたことが日本では毎週のように起きている。スポーツの様に上下関係がしっかりしているところほど早く潰れるのは偶然ではないだろう。ガバナンスが効きすぎるので腐敗も早く現れるのだ。

実際に日本は閉鎖的な空間になりつつある。そこでいろいろルールを作り変えて「自分たちだけは生き残りたい」という人たちが増えている。社会というものを信じない日本人だが「利用できる」となるととことん社会を利用し始める。この時に社会という左派が好きな言葉を使わず公という言葉を使いたがるのが特徴なのだが、公というのはたいていの場合社会の私物化の言い換えに過ぎない。

こういう人たちは「日本社会の伝統」というものを勝手に定義してよくわからない人権のようなものを「定かではないですが、こういうものは日本人の心持ちには合わないと思います」などと言ったりする。わからないものを切り捨てておいて「今まで見えなかった本質が理解できる様になった」といって自己催眠をかけるのである。

だが、ルールを自分たちの都合の良いものに改変したり理解できないものをかっこでくくって放置してみても社会の活力が戻るわけではない。そのうちに制御できないものはすべて「日本の伝統にない」などと言って社会を硬直させてゆくのではないかと思える。

私たちは人間が持っている良心に従って人権を尊重する、人権は偽善にすぎないがそれでも尊重する、閉鎖した村落で孤立して滅びてゆくという三つの選択肢を持っていることになる。日本がどの道を選ぶかは、我々一人ひとりの選択にかかっている。

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