わかっているのに変えられない日本社会

今日のお話は「迷っている」というものである。情報発信としてはかなり伸びているのだが、それは同時に問題解決から遠ざかるということを意味している。これをどう折り合わせて行こうかと思っているわけである。

朝、投稿を終えてからメールをみたら深刻そうな問い合わせが入っていた。外国人だが職場いじめられているという。まず本当のことかはわからないし、メールだけでは詳細なことはわからない。書き言葉の日本語は堪能である。

一応、本人にはメールを書き、QUORAにも相談を載せたのだが、どちらからもレスポンスはなかった。つまり、当人は「わかった」とも「がっかりした」とも言わないし、周囲の人からも有益な情報は得られなかったわけである。以前ならがっかりしたり憤ったりしていたと思うのだが「ああ、やっぱりな」と思った。(本当のことを書いてあると仮定して)相談してきた当人はレスポンスどころではないだろうし、日本人は個人での協力を嫌がるので具体的な問題を提示すると逃げてしまうのである。

日本社会はこのように閉塞した状態にあるので相談してきた本人が「ああ、相談してよかった」というようなアドバイスは書けないだろうなと思った。普通なら、できるだけいじめに対処してそれでもダメなら転職を考えろくらいの話になると思うのだが、外国籍の場合スポンサーシップの問題がある。つまり、日本人ほど転職は楽ではないかもしれないのだ。日本は経済的にも未来のない状態なので、外国籍があるなら、在日韓国人・朝鮮人のように実質的に日本社会に居場所を求めざるをえない場合を除いては没落しつつある国にこだわる必要はないとさえ思うが、それも書くのはためらわれる。

プライバシーがあるのでメールの詳細は書けないし書かないのだが、これについて書こうと思っているのはそろそろ年頭からやってきたことをまとめようと思っていた矢先だったからだ。村落の問題から始まって組織されない「群衆」の問題にまでたどり着いた。構造はなんとなくわかってきたが、閉塞感の背景はわかっても理由はあっても解決策はないだろうことも明白になってきている。日本人は個人に自信がなく、社会を信頼していないので、根本的に社会の問題解決に向かわない。しかもその状態に直面したくないのである。

閉塞感が自分たちに起因していることは認めたくないので、社会問題に構造を与えることで「他人や社会が悪いのだ」という主張には需要がある。だが、問題を作り出しているのも日本人なので原理的に問題が解決できない。日本人はという大きな主語はこの点便利にできている。実体はあるが、そこから自分だけを取り除くことができる。

例をあげると安倍政権が信任される理由はわかってきた。有権者が何もしないことを好んでいるからである。背景には「もう何をやっても日本は衰退して行くばかりだし、自分たちはなんとか逃げ切ってきたのだからこのままでいけるだろう」という意識があるのだろう。そして、安倍政権を首相に選んでいる日本人は馬鹿だと主張してもその中に自分が含まれることはない。

しかし、介護やいじめなど問題の当事者になった場合には事情が全く変わってしまう。根本的な治癒方法が見つからないので病変として切断されるかなかったことにされてしまう。これはいじめ、差別、介護の問題で私たちが日常的に見ている光景である。いじめはなかったことにされ、あったという事実認定に数年かかるのが当たり前である。しかも「当人が自殺した」という取り返しのつかない状態にならない限りいじめが認められることはまずない。女性のレイプ問題も同様で海外のプレスに英語で自分から情報発信するくらいのことをやらなければ社会にもみ消されてしまう。

今回の問題もいじめなのだが、組織としては「なかったこと」にするんだろうなと思う。一応公的な窓口があるわけだが、これがどこまで外国人の見方になってくれるかはわからない。あるいは「日本の恥」と認識されてしまうこともあるわけで、その場合には社会が総出で「問題をなかったこと」にするのだろう。

本来ならば、これについて「どうするべきだろうか」と相談したいところなのだが、これまでのコメント欄の反応などを見ていて、提案はないだろうなと思う。外から問題を語りたい人はたくさんいるのだが、中から問題を解決したいという人はこの社会にはいないと考えてよい。

日本人はすることよりもなることを好む。だから、個人の意見で「こうすればよい」という提案が来ることはないだろう。それは責任に直結するし、責任は社会から切断される危険を伴うからである。だが、流れを掴んで訴えかけるようにすれば「なった」ことになり閲覧は増える。一転して「切断する」側に回れるからである。

メールにはそのことが端的に書かれていた。「日本人の構造はわかるのだが、自分が抱えている問題についての解決につながりそうもない」というのだ。いじめは閉鎖的な空間で起きているわけだが、その閉鎖性が個人を苦しめ、中期的には組織も閉塞するということは目に見えている。まともな文明社会から来た人は「で、あればなんとかすべきではないか」と思うわけだが我々の社会ではこれが通用しない。

このため理不尽に突き当たると大変悔しい思いをすることになる。我々にできることは、これが個人の問題ではないということを認識することと、ありふれているということを自覚することくらいかもしれない。「自分だけが苦しんでいる」と考えてしまうとどこまでも追い込まれる。そして問題を発信すればするほど切断される側に回るリスクが増える。だから、回復したら立ち上がって、また普通の側に立って歩き出すしかないのである。

もちろん、自分の問題について情報発信し続けることには意味がある。普段からそうした情報に接している人は、いざ自分がその状態に直面した時に「自分一人が孤立しているわけではない」と考えることができるからだろう。例えばTwitterには、体が不自由で動けなかったり、普段から介護についてつぶやいている人がいる。日本の介護事情は細かく理不尽な規則のためにとても大変な思いをされている人が多いようだし、逆に自分の好きなことを見つけて精一杯に楽しんでいる人もいる。いろいろな選択肢があり一人ではないことは少なくともわかる。こういう人たちは「誰にも理解されないし、社会の役に立っていない」と思うかもしれないが、実はパイオニアになって同じ問題に直面するであろう人を先達している。杉田水脈流にいえば「生産性」があるのだ。

だが、やはりなんらかの問題に直面している人たちにとっては「問題ばかりみつめても何の役にも立たなかったな」というがっかり感の方が強いかもしれないなと思う。いくらあなたは一人ではないと言ってみたとしても、役に立つと説得してみても、問題は一人ひとりに違って見えるものだし、その時に協力を求めても同じ境遇の人はそれほど多くはない。さらに、自分が「生産性がある」と考えない限り他人からどう言われても嬉しくもなんともないにちがいない。

そうしたがっかりされるリスクを受け入れるべきなのかということについてはやはり躊躇がある。どうしても「問題を解決して有能だと見られたい」という意識が働いてしまうからである。