石破さんが首相になれそうもない理由

羽鳥慎一モーニングショーで石破茂の特集をやっていた。本人が出てきて質問に答えるというやり方である。興味深かったのは地方再生である。羽鳥慎一が「経済をよくするアイディア」を聞いたが、石破は「お金を出してでも買いたいと思うような素晴らしいサービスを提供すべきだ」というようなことしか言えなかった。問題だと思ったのは石破の姿勢ではなかった。誰がかがアイディアを持ち合わせていれば「なぜやらない」ということになるはずで、日本の閉塞感がよく現れていると思った。みんな空を眺めて雨を待っているが、誰も雨が降る仕組みを知らないのである。

だが、今回はこの閉塞感を「だからダメなんだ」という分析はしない。多分、みんなが見逃している根本的な変化があるのだろうと思う。ないものについて語るわけだから、素材は別のところにいって見つけてこなければならない。

石破は憲法問題や筋論については語れるのだが、地方にどうお金を回すかというアイディアはないようだった。日本人はポジションを固定することで立ち回りが難しくなる「筋論」を嫌い、自分の村落に水を取り入れたがる。そして、自分を大きく見せるために正解の側に立ってワイワイと騒ぎたがる。だから、石破さんに支持が広がることはなさそうだと思った。石破側に立ってもマウンティング感情が満たされることにはならないのである。

石破の前半の主張は、昨日の「安倍ハウス」とほぼ同じことである。日本は改革が必要であると言っている。改革が必要なので信頼を回復して契約書を書き換える必要がある。だから政府は信頼を取り戻さなければならないということになる。

もちろんこれが理想形であるのは間違いがない。だが、これはなかなか浸透が難しいだろう。新しい憲法は新しい社会契約であり、つまり新しい義務を意味している。多分、多くの日本人はこれを嫌がるのではないだろうか。つまり、日本人は現在の平和憲法をフリーギフトのように思っている。日本人は責任が伴う「する」を嫌い「なる」を好む。日本は戦後平和な国に「なった」のであり、その雰囲気にお付き合いをすれば良いと考えるのが普通の日本人だ。逆に言えば安倍首相は日本を平和でない国に「したい」のであり、そう「なっては困る」と考えているのである。

もちろん日本にも「する」が重要視された時代があった。戦後すぐにアメリカに出かけて行き、家電やバイクやカップラーメンを売った人たちは「日本を豊かにした」人たちである。これがなぜなくなってしまったのか、というのが実は問題を解くカギになるのではないかと思う。そういう国になってしまったという前提をまず見つめてみることで、再び国を元の状態に戻せるのか、また戻せるのかという議論が、憲法議論に先行して必要なのであろう。石破の議論にはそれがない。つまり「国家感」がかけているのである。

国民経済を回復させるためには、日本人が「自分たちは経済を再びよくすることができるのだ」という自信を持つ必要がある。もし自信があれば「契約書を書き換えてでも国の仕組みをよくして再び経済成長ができるようにしたい」という機運が高まるだろう。だが、そういう機運はないので憲法第9条の議論も盛り上がらない。憲法第9条には国民と国家の約束ではなく、日本が国際社会と交わした約束という側面がある。国がよくなるという確証があれば憲法が変わり、最後に国際的な貢献をしようという気持ちになるというのが順番だと思うのだが、そもそも最初の動機が枯れ果てており、そこから先に進めるような雰囲気にならないのは当然のことである。

多分、このショーは「安倍首相批判」と「憲法論」が取り扱われることになるのだろうが、羽鳥慎一と石破茂のやりとりは実は「国を成長させるアイディア」を司会者の側も政治家の側も持っていないという点のほうが重要である。羽鳥慎一は「どうやったら国をよくしてくれるのですか」と聞き、石破茂は民間活力に期待するというようなことをもごもごと語っていた。具体的には豪華鉄道のように「良いサービスがあれば人は買ってくれる」というような提案だった。つまりどちらも「誰かがなんとかしてくれる」ことを期待しているのである。

次回はこのことについて考えるのだが、いったんわかってしまえば、自民党のように賞味期限が切れてしまった政党の内輪の争いについて着目することに意味があるのかと思えるようになるのではないかと思う。アイディアがないのだから政策コンペティションには意味がない。以降の自民党の総裁選挙は強いものにしがみつく儀式になるはずだから、もしかしたらこれが最後の総裁選挙になるかもしれない。

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