なぜ国民民主党はこの日本から消える必要があるのか

もともとこのエントリーは携帯電話料金について書くつもりだった。しかしこれを書いている途中で玉木雄一郎議員の以下のツイートを目にしてタイトルを変えることにした。国民民主党はうんざりなので、はやく視界から消えて欲しいと思ったのである。

国民民主党というのは基本的に自民党に入れてもらえなかった人たちの寄り合い所帯である。もともと日本人には良心というものがないのでイデオロギーの持ちようがない。彼らの目的は自分たちをなんとなく立派な政治家っぽく見せることだった。内心に由来する良心がないので発言は一貫しておらず、つねにふらふらしており、その時の「かっこいい」思想に寄生したがるという悪癖がある。さらに内心がないので、自分が言っていることが現在の状況にあっているのかを考えるスキルも意欲もない。だから「最低賃金以下でも働ける」などという暴論が平気で出てくるのだろう。本人のスレッドを読んだが「ベーシックインカムも整備するので考えは変えない」という。誠に救い難い。

では、なぜ最低賃金以下の労働というのが危険な暴論なのかということを説明して行きたい。すでに分析したように日本は発展途上段階から成熟国段階に入りつつある。だが、発展途上の「稼いで溜め込む」という固定観念から抜け出せていない。そこで成人病のような状態になっているのだと分析した。お金は溜め込むのではなく流す必要があるのだが、誰かが不安から溜め込み始めると「囚人のジレンマ」のような状態になり、社会全体の功利が低下するのである。

具体的には企業が資金を蓄積しすぎており外から新しい価値観が入れられないことが問題になっている。さらに「自分たちの将来は危ういのではないか」という気持ちも持っている。そこで新しいサービスを積極的に受け入れる人たちにお金が回らない。このことでさらに市場が冷え込むという悪循環に陥っている。

例えば日本の企業はオリンピックを支えるために十分な資金を持っている。これをなんらかの形で労働市場に流せば、新しい(一見無駄に見えるだろう)サービスが生まれ、それを享受する人たちも育つ。オリンピックはお祭りであり、こうした無駄が許容される。このようにすれば日本は成熟国のお手本になれるのではないかと考えた。この考えが「無謀」に見えるのは無駄遣いが悪だと思われているからなのだろうが、それならオリンピックのようなお祭りをやるべきではない。さらにみんなはお金を使って欲しいが自分だけは溜め込みたいというのは「囚人のジレンマ状態」を加速させる。みんながお金を流さないのに自分だけは使ってしまうと結局使ったお金が戻ってこないからだ。

このことがよくわかる議論がある。正確には議論の中から抜け落ちているポイントに日本が成長できない理由が隠されていると思う。それが携帯電話である。

菅官房長官が唐突に「携帯電話の料金はもっと下げられる」と言いだした。普段は安倍官邸が何かを言いだすと決まって「反対」の声が出るのだがこの件に関しては反対の声は上がっていないのだが、何か裏があるのではないかと疑う人もいる。

この時期に言いだしたのは消費増税を控えていて「経済への悪影響を減らしたいから」というもっともらしい観測もあるようだがどうも後付めいている。人気があまり上がらずに根強いアンチのいる安倍政権で民衆が騒ぎ出さないように「政治への期待」を高めておきたいという理由があるのではないだろうか。企業をいじめて政府支出がない改革を誘導するという意味では極めて下劣なやり方ではある。実際に菅官房長官の発言で3大キャリアの株価が下がったわけだから訴えられても文句は言えないように思える。擁護論の中には国民から電波という資源を借りているのだから儲けすぎてはいけないという社会主義者のようなことをいう人もいる。普段左派を攻撃しているはずの立場の人が平気でこういうことを書けるのだから、やはり日本人には良心というものがないのだなということがよくわかる。

だが、実際にはこの問題の肝は別のところにあるようだ。携帯電話料金を下げると日本の経済は縮小する。ところが、この「縮小のマインドセット」が日本国中に染み渡っておりこれに反対する人が出てこないのである。

日経新聞は面白いことを書いている。世界では携帯電話会社がコンテンツを提供しており、そのコンテンツを利用する際の通信料を取らなくなっており携帯電話料金だけを比較しても仕方がないというのである。日本人が「携帯電話料金がさがらないかなあ」と思っている時「面白いコンテンツを見ることができないかな」と思っている国もあるのだ。

これは産業が垂直方向に移動していることを意味している。昔は単に移動手段だった車はいつしか何処かに遊びに行くための手段になった。このようにして製造業から始まった産業はいつしかサービス産業化し最終的には遊興などを含めた「コンテンツ」に注目が集まるようになる。タイヤ会社がミシュランガイドを出すようなものである。携帯電話もかつては連絡手段だったのだが、いつしかSNSのような自己表現の場になり今ではテレビのようなコンテンツ産業になりつつある。

日本は「オリンピックのようなどうでもいいイベント」もできなくなっているのかと思う人もいるかもしれないのだが、実はオリンピックが扱えないというのはとても重要なことだ。つまり、楽しみを扱えないということを意味している。だから日本はオリンピックというと「体育館が建てられてひょっとしたら高速道路も伸びてくるかもしれない」ということになる。築地の問題もその典型だ。伝統産業やコンテンツ化した築地をわざわざ高層マンションに変えて自分たちだけで儲けようとしているのだ。

ところが、いやいや長時間働いている日本人はこの「楽しみ」のビジネスをうまく扱えない。とてもそんな余裕がないからだろう。それどころか自分の地位や生活が今後どうなるのか不安で仕方がない。日本はお金持ちの国になったが預金通帳を毎晩取り出しては「明日はどうなっているのかわからない」と震えている国なのである。

つまり、実際にやるべき議論は「携帯電話料金がいくら下げられるのか」という話でも「携帯電話の値段に政府が介入すべきなのか」という話でもない。「どうやったら新世代のプラットフォームを使って新しい商売ができるのか」ということであり「成功した芽を枯らさないように移植して海外に持って行くことができるのか」という議論であろう。ところが消費市場が不安で冷え切っているのでまずそこを温めるところから始めなければならない。

そのためにはまず「今後の生活に不安がなくなる」ということがとても重要である。だから高齢者が働きたいと言ったら最低賃金以上を稼げるようにしなければならないのは当然である。問題になるのはむしろ体調にあった時間で働けることなのだろうが、これは高齢者に限ったことではない。子育て世代でも柔軟な時間設定は促進されるべきである。

ところが玉木雄一郎という議員は「大変だ大変だ」という悲観論にどっぷりはまっている。しかも党としての人望もないため「日本はマインドセットを変えるべきだ」という議論を主導することはできない。

さらに玉木議員は本当は自分は「生産性の高い選ばれた人間である」と思っているのだろう。ベーシックインカムに最低賃金以下の労働を組み合わせるというのは障害者雇用と同じ考え方である。つまり「労働力として早くに立たない半人前の人を企業様に使っていただくには給料を安くするしかない」と高齢者を侮っている。日本にはこうした「生産性神話」があり「障害者もみんなと同じようには働けないのだからせめて社会参加させていたけるように最低賃金以下でも働け」という差別的な法体制がある。これを国会が主導するのは彼らが選民思想をもっているからだ。これは普通でないというレッテルを貼られた人たちに「自分は半人前で生産性がないののだが、社会参加させていたけるなら仕方がない」というスティグマを生み出す。こうした思想を煮詰めて行くと杉田水脈議員のようになる。要するに「普通でない人は生産性がないから大きな顔をせずに世間の片隅で申し訳なさそうに生きて行け」という思想だ。玉木議員はこれを高齢者に広げようと画策しているのである。

こうした性根を持った人は政界から早くいなくなるべきだと思う。国政政党としての国民民主党は消え去る運命なのだろうから別に放置しても構わないと思うのだが、こういう思想を持っている人が国会に議席を持っているということ自体がとても腹立たしい。