保守思想と先住民族とDNA

先日Twitterである投稿を見た。アイヌ民族について連続して発言しているアカウントである。なぜかアイヌ民族などいなかったと主張したがる人たちがおり彼らに反発しているようなのだが「アイヌ人などいない」とか「和人の方が先にいたから先住民族ではない」などという人たちが後を絶たないようだ。彼らは今回は遺伝子を引き合いに出して「アイヌは先住民族でなかった」とか「いまアイヌを自称している人はなりすましだ」などと言っている。ただ、それに反対する側も遺伝子を引き合いにだして「遺伝的にある傾向があるはずだ」と主張していた。

これは問題だなと思ったのだが、誰にとってどんな問題なのかを考えるとこれがなかなか一言では言えない。アイヌ系の日本人への人権侵害や中傷であることは確かなのだが、実はヤマト系の日本人にとっての問題を方が切実である。特に真面目に本邦の保守思想を考えたことがある人にとっては、自己規定というのは大問題のはずなのだが、未だに民族をDNAで規定できると考えているということは、おそらく真面目に考えたことがない人たちが大手を振って「自分たちは保守思想家でございます」と言っているというのが空恐ろしい。

日本人は実は民族について真面目に学校で教わることがない。これは教育の不備というよりも国の事情による。あまり他者と触れ合ってこなかったので自己規定が必要なかったのである。この点においては平和主義の議論と似たところがある。日本は大規模な戦争に直面してこなかったのであまり平和について突き詰めて考えることがない。憲法の平和主義を理解し擁護するためには当時の国際状況と現在の国際状況を見なければならないのだが、護憲派も改憲派も第二次世界大戦直後の状況認識が変形したものを抱えたままで論争を続けている。

民族についても同じことが起きている。先住民の権利保護は比較的新しい考え方なので、歴史的な経緯を踏まえないと「なぜ先住民の権利を保護すべきなのか」という論拠が立てられないのである。

まず、民族という概念からおさらいしてみよう。

韓国人と日本人を比べた時に「純粋な韓国人」という遺伝的マーカーも遺伝子の組み合わせもない。日本はなぜかチベットと同じ遺伝傾向(ハプロタイプD)を持った人たちが多く暮らしており、アイヌ系の中にも同じ遺伝傾向を共有する人たちが多数いる。一方で日本にはハプロタイプOという朝鮮半島と同じ系統の人たちもいる。だがハプロタイプDの人は韓国にはあまりいない。

だからハプロタイプOの人を連れてきて遺伝子解析してもこの人が韓国人なのか日本人なのかということはわからない。ハプロタイプDの人はおそらく韓国人ではないだろうが、この人が日本人なのか、日本に同化したアイヌなのか、アイヌなのかということもわからないのである。つまり、遺伝子と民族性というのは関係がないことはないが、遺伝子で民族は特定できないことがわかる。

にもかかわらず日本人は民族性と遺伝子が関係していると思い込んでいる人が多い。おそらくは多民族と接したことがないので「民族性というのは血によって決まるのだ」と漠然と信じているからではないかと思う。韓国は半島国家なので少し状況が違っていて「氏族」が自分たちがどこから来たのかということを伝承して書き残している。古く中国からきたと自認する人もいれば、最近アメリカ人と韓国人のハーフが創立した新しい氏族もある。

天皇中心の世の中ではもともと渡来系の家系と在来系の人たちを明確に区別しており、天孫と呼ばれるおそらく古い外来系の人と渡来系の人も分かれていた。だが、日本が武士の時代になると氏族の乗り換えが起こるようになった。例えば徳川将軍家はもともと藤原を自称していたが将軍家は源から出るということで源に変わり、最終的に徳川という氏族を創設したことになっている。

外敵がいないので氏族について考える必要がなかった日本人だが、明治維新期に日本人という枠組みが作られて、国語という概念もできてゆく。主権国家には領域という概念があるのでロシアとの国境画定を急ぐ中で「系統の明らかに異なるアイヌ人をどう扱うか」という問題が起きた。しかし日本政府はこれを棚上げしたままで「なかったこと」にして領域の確定だけを急いだ。数が少なかったのであまり問題にならなかったのだろうが、本州以南の習俗や社会を押し付けたという意味では侵略と一緒である。

もっと大きな問題が起きたのは台湾と朝鮮を併合した時だった。急激に大きな人口を飲み込んだでしまったからだ。この時日本にはいくつかの選択肢があった。日本を多民族国家として朝鮮人や台湾人を固有のグループとして扱う道、日本を単一民族国家として規定し朝鮮人や台湾人を同化する道、さらに植民地として切り離して本土とは区別するという道だった。だが、優柔不断な日本人は一つに決めることができなかった。内地にきた朝鮮人には日本人と同等の選挙権が認められ衆議院委員も出た。植民地としては破格で寛大な待遇と言える。一方で東洋拓殖という会社を使って農地を収奪して日本人の植民も計画した。これは後々大いに現地の恨みを買うことになる。

この裏返しとして日本人の自己規定の問題がある。自らの国家についてまともな議論ができなかったのである。政党同士の小競り合いから天皇機関説が糾弾されると議論そのものが萎縮してしまい、日本はどのような人たちからなるどんな国家なのかという議論ができなくなってしまった。

実はこの文章を書く時に「日本民族」とか「日本人」という言葉を使って良いのか迷いながら書いている。例えばヤマト系と書くと他の原住民族や外来の人たちを認めることになるのだが、政府として「ヤマト系」の定義はないはずだ。だからアイヌ系日本人という言葉もないし、帰化した朝鮮系の人たちを朝鮮系日本人とか新渡来人などと呼称することもない。つまり、よく考えてこなかったから学校でも教えられないのだ。実はアイヌ系が誰なのか規定できないということはヤマト系の人たちが規定できないということなのだが、この文章を読んで「ああ、そうだな」などと思う人はいないだろう。

このように日本人は曖昧に周縁に拡張してきたので「他民族を侵略した」という意識が持ちにくい。故意に隠蔽している側面もあるだろうし、意識していないのでよくわからないという側面もあるのだろう。

次に、先住民を保護すべきという機運はどのようにして生まれたのかということを考えたい。

調べてみると1970年代から議論が始まり1980年代に固まった新しい権利のようである。まず最初に日欧米の主権国家とそれ以外の地域があり主権国家はそれ以外の地域を植民地化してもよいことになっていた。これが破綻して植民地域にも主権国家という扱いをすべきだということになる。これができたのが1945年である。この時に自決権の塊として人工的にに定義されたのが「民族」という概念だった。民族という概念は帝国が崩れたときに国家の構成主体として考えられた「アイデンティティを同一にする一団」のことである。

これが落ち着いて「国家格を持っていた人たちにも権利を拡張しよう」と考えられるようになったのが1970年代なのではないかと思われる。つまり、歴史的に国家格を持ってこなかった人たちにも自決権を認めようという流れである。アメリカの事例を見ると黒人の主権を認めてゆく公民権運動の影響を受けてアメリカ原住民の権利を認めて行こうという動きもあったようだ。

つまり、固定的な領域概念だとされていた「民族」や「国家」に移動の概念が取り入れられていることがわかる。日本やアメリカ合衆国のように周辺に伸びてゆくときにもともといた人たちの権利が蹂躙されるということもあるだろうし、アフリカから連れてきた黒人の人権をどのように守るかということでもある。

この時にぶつかった壁が「民族とは何か」という問題である。世界には様々な民族集団がいる。例えば言語をとってみても「方言なのか言語なのか」という問題があり民族が自明に見えるヨーロッパでは一部で独立運動も起きている。また遺伝的には同じ集団でも「イスラム教を受け入れた」という理由で異なった民族を自認する人たちもいる。もっとも極端なケースとしてヨーロッパ人が勝手に見た目で割り振ってIDカードを使って固定したケースもある。ソビエトが人工的に民族を規定した中央アジアでは歴史的な民族の呼称と今の人たちの遺伝的傾向が異なっていたり、一つの民族概念に異なる人たちが含まれる国もある。例えばウズベク人の中にはトルコ系の人とペルシャ系の言語を話す人たちが含まれるそうだ。

「民族とは何か」とという概念もないのだから、そもそも先住民族とは何かという定義ができない。アムネスティですら「定義はない」と言っている。

世界には、およそ3億人の先住民族が暮らしていますが、彼らの暮らしや文化、社会はさまざまです。そのため、国際的に決まった先住民族の定義は存在しないという指摘もあります。

そもそも定義がないのだから、遺伝情報を取り出して勝手に「ある」とか「ない」などと議論しても全く意味はない。アムネスティは次のように続ける。

先住民族とは、自らの伝統的な土地や暮らしを引き継ぎ、社会の多数派とは異なる自分たちの社会や文化を次世代に伝えようとしている人びとである、という定義もあります(ILO169号条約、国連コーボ報告書など)。

つまり自認が大切だというのである。

ところが自らの自己決定をあまり信じずに他人からの承認を重んじる日本人にはこの「自己決定権」という概念がそもそもよくわからないのかもしれない。だから「みんながないと言い出せばなかったことにできるのではないか」と思ったり、逆に「なんとかして科学的な民族の証を求めよう」という話になる。要するに民族を意識するかしないかにかかわらず固有の社会集団としての歴史があり、なおかつそれを今後も存続させたいという集団がいるとき、その人たちは「民族として扱われる」ということである。

現在の保守を定義すると「問題を先送りしたり切断したりすることで自己保身を図る」というものだと思う。だから自分と主義主張が異なる人を「反日」として切断したり「在日認定」して切り捨ててしまうことになる。安倍政権もこれまでのお友達を「あの人たちのことは実は最初から信頼していなかった」などといって切断し、最近では石破茂までも「安倍政権に反旗を翻すから反日だ」と言われる。中には天皇陛下を反日と呼ぶ人もいるそうだ。もともとの定義を考えると不思議な話だが、保守の本質を切断処理だと考えれば特に不思議に思うことはない。

だが、これはタマネギやキャベツの皮を向いたら何も残りませんでしたというのに似ている。

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