オリンピックはなぜ尊く、なぜ今の日本でやってはいけないのか

先日来、徳治政治について考えてきた。徳によって治められている社会が実際に存在したわけではなく過去を振り返る中で「あの頃には徳があった」と考えるのが徳治政治の実態なのではないかというようなところまでは到達した。

しかし民主主義と同じようにどこか隔靴掻痒の感が否めない。民主主義の理解がキリスト教と紐付いているように、徳治政治について理解するためには漢字の字源を調べなければならないということに気がついたのである。

今回はオリンピックについて書くのだが、オリンピックの目的は和語で説明できる。よのなかのこころをひとつにするためにことほぎのまつりをおこなうのがオリンピックの目的である。ことほぎとは言葉(こと)を出して祝う(ほぐ)ことを意味しており、祭りは大切なものを奉(たてまつる)る事を意味する。また、言葉という単語には事という重大事と葉という瑣末なものが含まれている。今回は寿ぐと言われているので「端(は)」ではなく事が重要なのである。

日本人は政治を政(まつりごと)としてきたことからわかるように、問題解決よりも世の中の心を一つにすることを重要視する。

徳治政治が重要視されるのは価値観が撹乱する中で人々が心を穏やかにできる価値観の提供が求められるからだ。これを儀礼と日々の思索・鍛錬によって実現しようとしたのが儒教なのだと理解した。一方で日本の伝統的な政治感に照らし合わせると「すっと腹に落ちる」定義ができる。みなでことほぎができる場を作るのが政治の役割である。だから、オリンピックのような祭りを司祭することは政治の本質の一つなのだ。

周国の儀礼であれ日本の祭りであれ古代ギリシャの祝祭であれ、共通するのはそのありがたみである。例えば私たちは正月に神社にお参りをした時に「日本人である」と感じる。神社で手をあわせるという行為を通じて先祖とのつながりを確認したり、家族との関係に思いを馳せたりするわけである。

しかし、そのありがたみはどこに存在するのかを改めて問われてみると「よくわからない」としか言えない。日本の場合それは特に顕著だ。建物は数年おきに建て替えられており、場合によっては場所さえ移動する。そして中を覗いてみてもそこには鏡が置いてあるという具合である。オリンピックも祭りの場は4年に一度遷座し、そのありがたみの象徴は触れる事ができない(形がなく熱くて触れない)炎である。しかも炎そのものは太陽の光の熱にすぎず、いろいろな燃料で燃やされているだけである。それがありがたみを帯びるのは時間をかけて皆の前を通過してゆくからだ。

ここで空と虚の概念が生きてくる。大げさでよくわからないと感じる人も多かっただろうが、空は何もないことで満たされている状態を意味する。ところがこのありがたみが崩壊させられる事がある。誰も手を入れなくなり打ち捨てられた神社や、宮司の一家が争っておりありがたみを失った神社がそれである。打ち捨てられた神社に手を合わせても物質的なものは何一つ変わっていないのに「かつてあった」ありがたみが失われている。このかつてあったものが失われたあの感じが虚である。

オリンピックも同じである。人々が心を一つにして準備をすればそれはありがたみをうむが、人々が争って準備をすればそれは呪いの場になってしまうのだ。

形を取り繕うことで虚を再び空で満たす事はできない。なぜならばそもそも空は物質的には存在しないからである。これまで繰り返し述べてきたネトウヨと称される新しい保守の虚しさはそこにある。道徳を押し付けて人々を従わせようとしているが、形を押し付けても人々の心は一つにならない。そこで躍起になって嘘をついたり歴史を捏造したりすることになるのが現在の保守を僭称する人たちの姿なのだが、それは彼らが「ありがたみ」を肌身を通して理解していないからであると言える。

ギリシャ悲劇の上演は政治から切り離されてエンターティンメントに発展するが、スポーツはいったん失われた伝統が再現されて結果的に政治に利用されるという道を歩んだ。近代オリンピックは古代ギリシャのオリンピアの精神を現代に蘇らせるものとして開始されたが必ずしも当初の意図どおりにはならなかった。1896年に最初のオリンピックが開催されるが、もともとは個人参加のアマチュアの大会だったそうだ。しかし万博の付属行事のようになってしまい、その脱却のために第四回のロンドンから各国代表制度が取り入れられたそうだ。人々の心を一つにするという目標はあったがナショナリズムを利用する事なしに普及する事はできなかったという事になる。そしてそれはコマーシャリズムを加えて拡大され現在に至る。

国というまとまりを通じて世界の人たちが集まり「世の中が安らぐように」という言葉を述べるのがオリンピックという祭りのもともとの意味合いである。人々が体を使って自分の限界に挑戦することを通じて「心の中にある天に向かって伸びたいという気持ち」を確認し合い、それを良きものとして祝うのだ。オリンピックを開催するためにはその国の状況が安定していなければならない。腹が満たせておらず心に余裕がない国はそもそもオリンピックが開けない。

ところが今回のオリンピックはどうも違っているようである。第一に人々にオリンピックを希求するような動きがない。長い停滞の中にいる人々は社会を通じて自分たちの可能性を追求できるなどということは信じていないのであろうし、そんな遊びをするくらいならまず自分たちの方に振り向いてくれと言っている。

もう成長する機会はやってこないのだから長い冬に備えて自分たちだけは蓄えなければという動きが見え隠れする点も気になる。収益は独り占めされ、テレビ放映権をもっと得たいから社会を犠牲にしてサマータイムを導入したいといい、古くからあった私たちの心と腹を支えてきた市場を壊し、さらに無償の労働を提供しろというような私物化の動きが加速しておりとどまるところを知らない。

さらに深刻なのは当事者たちの問題だ。スポーツ選手は「自分たちは天に向かってすくすくと伸びてゆきたい」と願っているが、既得権に閉じこもる「協会側」の人たちはそれを許さない。そこで「暴力はいけない」という突破口が見つかったので、告げ口が横行する。だがいつしか選手たちの希望は横に置かれてしまう。大人たちがお互いに指をさしあって「権力闘争だ」とか「昔から気に入らなかったのだ」とお互いを呪い合うのである。中には選手を呪って「今のままではオリンピックにいけない」とか「あの人はそもそも選手なのか」などという言葉がテレビを通じて呪いの言葉として国中に響く。これが一つの協会だけでなくいろいろなところで起きているのが今のスポーツ界だ。実際に何が起こったのかはよくわからないが、とても「心を一つにできる」ような状態ではなさそうである。

人々が「逃げろ」とか「冬に備えろ」などと思い合っており、そのためには面倒なものは切り捨てて、相手から奪ってでも生き残ろうとしているのがよくわかる。多分政治の世界でも同じような状況が起こっており、このこころもちが口に虚と書いて「嘘の首相」を生み出している。

オリンピックは人々の穏やかな世の中ですくすくと天に向かって伸びてゆきたいという気持ちを社会に響かせるための装置になる可能性がある。ところが実際には人々の相手から奪ってでも逃げなければという気持ちを拡大する呪いの場になっている。今心を入れ替えて「ことほぎの場になるぞ」という強い決意がなければ、打ち捨てられて行く「レガシー」と化した競技場の廃墟感を伴って日本人に苦い記憶を植え付けてしまうかもしれない。

たとえ金メダルをたくさん取れたとしてもそんなものは一週間程度消費されて終わりになるだけである。人々が心を一つにして何かを祝う気持ちがないのであれば、オリンピックは返上すべきではないだろうか。

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