村落共同体の視過剰適応と政党の「新規顧客獲得」作戦

これまで、日本の村落的な共同体が「顧客」や後継者を失い過疎化する仕組みを観察してきた。

日本の共同体が衰退する様子を見ていると「村的な」性質が観察できることが多い。

例えば大相撲は改革を握りつぶすことで閉鎖的な暴力制度が温存されることになり、これから新弟子やファンを失ってゆく未来が確定した。今は貴乃花問題が世間の注目を集めているのだが、実は可愛がりのような問題は全く解決できていない。普通の人は努力の成果が透明かつ公正に評価されるスポーツを選ぶはずなので、例えば野球やサッカーというような近代的なスポーツを選択するだろう。柔道などはスポーツ化が進んでおり不完全とはいえパワハラなどにも自浄作用が働きつつある。相撲はこれを拒絶する道を選んだのである。

相撲が衰退するメカニズムはわかりにくいのだがネトウヨ雑誌はもう少しわかりやすい形でこの衰退メカニズムを見せてくれる。

新潮45はもともと購読者数の減少に悩んでいた。彼らは「買ってくれるかどうかわからない」人よりも熱烈に雑誌を応援してくれる人たちを見つけて自滅した。これを「過剰適応」と呼ぶことにする。過剰適応とは、一部の声の大きい人を全体と錯誤して自滅する現象である。今回は社会の規範と正面衝突してしまっために急遽休刊となったわけだが、そうならなければ過激化しつつ購読者を失っていったはずである。あのようなめちゃくちゃな「論文」が掲載されている雑誌を進んで買おうなどという人はよっぽどの物好きか判断能力がない人だけだろう。しかし、内部の感覚は違っていたのではないだろうか。つまり、小川栄太郎「論文」がバズってしまい在庫が捌けてしまったために「この線で行けばもっと購読者が増えるのではないか」と誤認した可能性が高い。

その前にも「ネトウヨに訴求すれば受ける」という成功体験があったはずである。彼らがどこからその成功体験を得たのかはわからない。現在の宮本太一が編集長になったのは2008年だそうだ。これは民主党政権ができる1年前である。この頃のTVタックルを覚えている人たちは自民党流の公共工事が悪し様に言われていたのを記憶しているはずだ。既存の価値観が叩かれるとそれについて行けない人たちが出てくる。彼らはお金を払ってでも自分たちの感覚を慰撫してくれるようなメディアを求めるのではないだろうか。

いっけん勝利したかのように見えるネトウヨだが、実は商売流行りにくくなっているはずだ。安倍政権の出現でルサンチマンが解消されてしまえば、お金を払ってまでネトウヨ雑誌を買う必要はなくなる。習慣で買っている人が高齢化で徐々にいなくなり購読者が減っていったと考えれば購読が少なくなっていた説明はつく。

同じことがリベラルにも言える。現在は「左派リベラル的な雑誌」の購読者がピークの可能性がある。現在、選挙に負け続けている彼らは否定されているような気分になっているはずで、彼らを慰撫してくれるようなメディアが必要だからである。彼らが反応するのは昔ながらの「金儲けはいけないことだ」「戦争は悲惨だ」という価値観である。これが「成長なんかしなくてもいいから、みんなで仲良く貧乏になろう」という主張として展開されている。リテラなどがその好例だ。心が豊かなら貧しくても良いではないかという主張は高度経済成長を知っている高齢者には受け入れられるかもしれないが、現役世代は「いやいや待ってくれ」と思うのではないだろうか。

だが、彼らはそれに気がつかないだろう。左派リベラルに反応してくれる人は「憲法について議論したら自動的にアメリカの戦争に加担して地球の裏側に子供が徴兵される」というような、いわば「純化」された人たちだけである。彼らの声は大きいので、左派リベラルはこうした声に応えて過剰適応する。すると、それ以外の人は静かに退出していってしまうのだ。

ある一つの主張にコミットした雑誌や政治的な運動はレスポンスの良い人たちの反応を取ることはできても、静かに離反してくれる人や顧客になってくれていない人たちの声はすくい取れないことがわかる。これが過剰適応の罠である。マーケティングでは非顧客と呼ぶ。すでに一定顧客がいる人たちも、そうでない人たちもこのうちの「第三グループ(tier3)」と呼ばれる顧客を獲得する必要がある。

だが、この非顧客を発見するのは難しい。非顧客は積極的に働きかけてこないからである。過剰適応でなくても働きかけてくる潜在顧客から拡大のヒントをもらうのは難しい。例えばこのブログにコメント欄を作った時には「レスポンスを参考にしつつ紙面を構成しよう」というような淡い期待をしていた。しかし、これが甘い目論見であると気がつくまでさほど時間はかからなかった。

これにはいくつかの複合的な理由がある。第一に読者は忙しいのでわざわざ他人の書いたものにコメントしない。これは自分で読んでみてわかる。他人の文章について「ふーん」と思うことはあっても、いちいち感想など書いたりしないことが多いからだ。

さらに、ブログは他人の庭のようなものなので自分の意見をいうのがはばかられるという事情もあるのではないだろうか。一方で準公共空間になっているYahoo!には遠慮を知らない人たちが一方的なコメントを寄せるのが常である。日本人にはあまり「一緒に公共空間を作って行こう」という気持ちがないことがわかる。所有権とヘゲモニーを意識しているのではないかと感じる。日本人の意識には「他人の村」か「自分の村として戦力できるか」の二者択一しかない。これを批判することはたやすいが批判したとしても状況は変わらない。

さらに、この関門を突破してたとしても主観という壁が残る。ブログにもたまに反応を寄せてくださる人がいらっしゃるのだが、たいていはセルフレコグニションか承認を求めているようである。良し悪しは別にして日本人は対象ではなく関係性に強く反応してしまうので、これは避けられないのではないかと思う。対象物について議論するのではなく、ついつい人間同士の関係構築に興味が移ってしまうのだろう。

しかし、かといって情報が何も取れないというわけでもない。「個人としての日本人」はあてにはできないが、集団としての日本人はかなり統制された行動をとる。つまり、統計はかなり世論を反映するのである。

例えば、あるニュースが盛り上がると過去記事の閲覧が増える傾向にある。期待されている答えがないと0秒で離脱されてしまうのだがそうでない場合もある。これを見ているとある程度「どんなニュースにどれくらい価値があるのか」がわかる。誰かが指揮者として指示をしているわけでもないのに自然とそうなるのだ。例えば貴乃花親方の問題は今関心を集めているが、小池百合子と豊洲の問題には「引き」がない。

豊洲の問題が再び注目を集めるのは移転して戻れなくなった上で何か事故が起きた時であろう。解決できそうもない問題が出てくると日本人は誰かの首を取りたがる。誰かの首を取ることで問題解決に代替えするのである。現在小池都知事が最終責任者であるという「仕込み」が行われており、問題が起きた時にこのフッテージが繰り返し流されることになるだろう。汚水と思われる水が上がってきているYouTubeのショッキングな映像もあるが、これもほとんど閲覧されていない。ただ、これも無駄とは言えないだろう。小池都知事が問題を抱えた時、このフッテージの所有者に取材依頼が殺到するはずである。そして、その兆候は閲覧数などに現れるはずである。

もし、新規の支持者を獲得したいなら、ある程度記事の傾向をバラした上で様々な再度コンテンツを作ってみると良いと思う。さらに「今引きがない」からといって将来的にも情報価値がないということにはならない。

ただ、こうしたコンテンツをバラバラに持っていても分析はできない。だから、一箇所に集めておく必要がある。例えば左派政党が支持を集めるためにはいろいろな問題に注目して記事を書き、これを一箇所に集めておけば良い。普段から貯金しておけばそれだけ「当たる確率」は増えるはずである。

現在の政党の問題は個人商店のようになっているという点であろう。議員一人ひとりが支持者を獲得してそれを政党に持寄る仕組みになっている。特に民主党系の政党は社会党と自民党ハト派の寄り合い所帯担っているはずなのでこの傾向が強いはずだ。そうしたやり方をしているうちは、左派リベラル政党は支持を集められないばかりか、伝統的な支持者に引っ張られて過疎化してゆくはずである。

もちろん企業にもこうした過剰適応の問題は起こり得る。固定的な関係を作って「安心」を確保したがる日本人には起こりやすい成人病のような病状なのではないかと思える。成人病を防ぐためには日頃からの運動が必要なように、過剰適応を防ぐためには普段から課題を計測できる「聴く仕組み」を確保すべきなのである。