過ぎ去ったネトウヨの季節と残された分断

Twitterで2つのニュースに接して「季節が変わったな」と思った。このままずっと続くだろうと思われたネトウヨの季節が終わったのである。今後安倍政権は坂道を転がり落ちるように国民からの支持を失ってゆくだろうと思える。二つのニュースとは沖縄県知事選挙と靖国神社の問題だ。

ネトウヨが終わりを迎える基本構造はやはり周辺の価値観との衝突だった。理論的にはわかってはいるものの、安倍政権がだらだらと続いていることもあり政治は例外なのではないかという諦めもあった。だが、どうやら政治も例外ではなかったようである。

沖縄県知事選挙では自民党が応援していた候補が負けて「オール沖縄側」が勝利した。当初、オール沖縄側が負けるのではないかと思って見ていた。翁長前知事の弔合戦のような様相があまりにも感情的に見えたからである。感情的な議論はあまり多くの人を巻き込まない。場合によっては部外者を遠ざけることになるだろう。

しかしながら、これに対抗する佐喜真陣営の主張がひどすぎた。ポスターを見たのだが「県民所得を200万円から300万円に上げます」とか「携帯電話料金を引き下げます」というような子供だましでなんとかなるとおもっていたようだ。県民所得がそんなに簡単にあげられるとは思えないし、携帯電話料金と県知事はそもそも関係がない。いかにもリテラシーの低い沖縄人を侮蔑しているように感じられたのである。宜野湾市での「成功体験」があったのだと思うのだが、「あ、これはまずいのではないか」と思った。

さらに創価学会の指令書と称するものがTwitterで紹介されていた。漢字にルビが振ってあった。多分中学校くらいしか出ていない人を念頭に指示をしているのだろう。つまり、わからない人や興味のない人を引き込むやり方で彼らは「成功体験」を掴んでしまったことになる。これは本土の政治のあり方と似ている。

一方で玉木候補の側はある風をつかんだようだった。それが「沖縄人意識」である。沖縄は、これまでの基地対応を見ていて日本人でありながら本土とは違うという二重性を意識したのではないかと思う。本土の人間はこうしたアイデンティティを持たないので政治に興味を持たない。したがって、未だに自民党の手法が有効だ。しかし、アイデンティティを獲得しつつある沖縄ではこれが効かなくなっているのである。

自民党は宮古島市と宜野湾市では優位に選挙を進めたようだ。宜野湾市は佐喜真さんの地元であり基地と引き換えの振興策とそれを行きわたらせるパイプがあるのだろう。宮古島市にも自衛隊の誘致運動がありここには振興策の話が進んでいたのではないかと思われる。(琉球新報)つまり、自民党はこの狭い地域の「村化」で住民を抱き込むことができた。だが、それを全県的に広めることができなかった。沖縄県は「社会」だからである。

これまでの情勢分析を見ると、ある年齢以上の人たちは「これに騙されない」として玉木さんの側に入れた人が多かったようである。一方でまだ政治経験が少ない人は少なからず佐喜真さんに入れた。

この選挙の基本構造はアイデンティティと経済的な抱き込みである。経済的な抱き込みは人を動かす。しかし動かせるのはほんの一部であり、その外に不満を持つ人が出てくる。ところが不満はそれだけでは政治を動かす力にはならない。そこには何が別のアイデンティティが必要だ。沖縄ではこれができつつあるのだろう。

ここで反応が悪いことに焦った佐喜真側は主に外野の人たちが「玉木が県知事になったら中国が攻めてくる」というようなプロパガンダを行ったようだ。識者の中にはこれをメインの敗因だとみなす人もいる。(古谷経衡)さすがにこれが主因とは考えにくいのだが、これが「有権者を引かせた」のは間違いないだろう。いかにも部外者が沖縄の政治をおもちゃにしているように見える。

ではどうして保守の人たちはこのような誰が見ても「これはデタラメだな」と思えるような主張を行ってしまったのだろうか。それは安倍政権が「こうしたデタラメな発言」を容認し続けたからだろう。杉田水脈に代表されるように安倍政権は先鋭的な(つまりは思い切りデタラメな)発言をした人を重用するようなところがある。

もともとは知的な左翼インテリへの反発から始まったルサンチマンに過ぎなかった動きが安倍政権によって日の目をみた。しかし日の光の下で見る彼らの姿はとても恐ろしいものだったということになる。

これをルサンチマンと決めつけることに抵抗がある人もいるかもしれない。では裏返して、真正保守になんらかの行動の目的があったと仮定してみよう。彼らの教義は今や国の教義であり、安倍政権は国民から支持されている。で、あれば彼らは今こそ「やりたいことができるようになった」はずである。しかし、実際には彼らにはやりたいこともなければ、彼らが言っていることが国民に支持されているわけでもない。国民は政治を冷めた目で放置しているだけだ。だから、彼らの運動は敵を探して貶める方向にしか向いようがない。とても残酷なことだが、ルサンチマンはルサンチマンでしかないのである。

一方、内地では別のニュースがあった。とても地味なニュースである。靖国神社の宮司が「天皇批判を行った」として一部で話題になっている。昭和天皇が靖国神社に参拝できなくなったのは靖国神社が政治利用されてきたからであって、天皇個人の資質によるものではない。だが天皇をコントロールできない神道はついに天野が間違っていると苛立ちをあらわにしたのである。これは天皇の道具化宣言だ。

第二次世界大戦に負けるまで日本は中国人や朝鮮人を指導する立場にある選ばれた民族であるというような意識があった。だから中国や韓国が政治家の靖国参拝を反対すればするほど盛り上がってきたという歴史がある。だが、現在の天皇家は日本という国を守るためにはアメリカを中心とした世界秩序の中に入り経済的な繁栄を目指すべきだという保守本流の政策を受け入れた。だから、ことあるごとに憲法順守の姿勢を打ち出し、中国や韓国を蔑視するような事象には関わらなくなった。現在の神道はそれが気に入らないのだ。

しかし、これまで表立って神道側が天皇批判を行うようなことはなかった。これまでも「天皇家のお嫁さんが気に入らない」というような人たちはいたが、さすがに天皇批判までは至らなかった。島田裕巳は次のように分析している。

何か、伊勢神宮に奉職している人間の方が、皇室よりも上だという考えが、小堀宮司のなかにあるようにも見える。今、靖国神社は、戦没者の遺族の減少で、かなり難しい局面に来ている。果たしてこの宮司でかじ取りができるのか。それは、かなり怪しいように思える。

この「日本が戦争に負けたことを受け入れられない」というメンタリティは、これまでも脈々とあったのだろうが、あまり表立っては語られてこなかった。しかし、アメリカとの協調路線を歩んできた保守本流が小泉時代に自民党内の闘争に負けて、真正保守を名乗った保守傍流の人たちが表に出ることで「今こそ自分たちこそが本物なのだ」という意識を持つようになったのかもしれない。最終的に「天皇と自分たちとどちらが本物の日本なのか勝負しようではないか」と主張するまでになってしまったのである。

この意識は今後政治課題に上がることになる。内閣改造では片山さつき議員が入閣することが決まったらしい。これまで日本の伝統的なあり方では天賦人権は受け入れられないと言ってきた人であり、驚くべきことに今でもこのTweetは消されずに残っている。これは靖国神社が「天皇ですら個人が価値観を持つのは認められない」というのに似ている。

もちろん、沖縄の動きと靖国神社の動きは全く関係がない。しかし根にある問題は共通している。これまで抑圧されてきたルサンチマンが「安倍政権になったのだから」という理由で一気に噴き出している。それが、国民世論にさらされた時にとんでもないコンフリクトを起こしかねないところまで来ていることになる。だが、安倍自民党はこれを撤回できない。そして「天賦人権を国民から取り上げるべきだ」とか「平和主義は間違っている」というのが政権の主張となったとき、多分創価学会はそれについてこないだろう。

彼らの考えが地下化したルサンチマンであった時にはずっと「自分たちを理解してくれない他人が悪い」と言っていればよかった。できる状態が整備された。あとはやるだけである。だが、安倍自民党が彼らの考え方を説明すると「国民は国家のために尽くすだけ」となり、神道が説明すると「個人としての天皇は黙って国に従え」となってしまう。

今後これがどのように反響するのかは誰にもわからない。しかし、例えば沖縄の選挙は「本土の日本人とは違う意識を持った沖縄人」という意識を生んだ。日本人にはこの恐ろしさがあまり伝わらないと思うのだが、ヨーロッパではこうした意識が「民族意識」となり分離独立の運動にまで発展している。一方で若い人たちの中にはネトウヨの宣伝を間に受けている人たちもいるようにみえる。彼らは佐喜真候補に票を投じたようだ。しかし、ネトウヨの宣伝を間に受けているわけではなく、反戦運動そのものが若者を遠ざけているという分析(ポリタス)もあり、その評価は一定ではない。もし、ポリタスが正しいとすれば沖縄の反戦運動もある意味の過剰適応を起こしていることになる。玉木新知事はアメリカと直接交渉すると言っているようだがこれが相手にされないことがわかった時また逆の揺り戻しが起きるかもしれない。

同じようなことは靖国の問題でも起こるかもしれないし起こらないかもしれない。憲法改正の議論が進むと「自分たちは保守でありなおかつ天皇より偉いのだ」とする若い人たちが出てくるのではないかと思う。しかし、この運動には根がない。結局「やりたいことはないけれど、自分たちに従え」と言っているだけだ。だから敵を作って突き進むしかない。常に「自分たちを邪魔する存在があるから願いが叶わないからだ」と主張するしかないのだ。

もともとはルサンチマンが保守という衣を見つけて大騒ぎしているような状態だったのだが、これが日本という国を分断してしまいかねないところまで来ている。過激化した上で世の中とずれてしまった真正保守の運動はこのまま衰退するのだろうが、それはこれまで眠っていた様々な感情を引っ張り出してしまった。

沖縄はこれを受け止める自意識を持ちつつあり、この分断を吸収できるかもしれない。しかし、本土にはこれに対抗できるような「日本人」としての意識がない。それがどのように作用するかはまだわからないのだが、とにかく一つの流れが終わったことだけは間違いないだろう。