「戦争ができる国」で軍隊はどのように扱われるのか

よく日本では自衛隊を軍隊にしてしまうと、明日からアメリカと地球の向こうに戦争に行ってしまうという議論が展開されている。本当に軍隊を作ると明日から戦争になるのかということを考えたいのだが、日本には軍隊らしきものはあっても軍隊はないので比較検討ができない。そこで韓国の事例を観察したい。

韓国は10月1日が国軍の日として記念式典が行われる。しかし公休日などではないようである。今年は70周年の記念式典が行われた。全体はライブ配信されたようでYouTubeでもみることができる。これを見ていると「軍隊がある国」の実情がわかるのだが、ずいぶんくだけているなと思うはずだ。

日本は軍隊がないので軍隊に対する見方が両極端になりがちだ。右側の人たちはその力を過信する傾向にあるし、左側の人たちは自衛隊を軍と認めてしまった瞬間に地球の裏側に戦争に行くようになると考える。中には制服を着て歩いていると議論を吹きかけられたり「人殺し」と罵られたりすることもあるらしい。こうした極端な見方があるので、軍として認めたら何をしでかすのかわからないという感覚を持つのだろう。

ところが、実際の国軍の日の記念式典をみるとそのイメージは変わるはずである。韓国の軍隊は軍政で国民を抑圧してきた歴史もあれば、アメリカに従ってベトナム戦争に参加したという歴史もある。ところが、近年それが変わってきている。特に今年は非保守政権のもとで北朝鮮との融和を強調するために大胆な変化があった。

第一に北朝鮮で見られるような軍事兵器の誇示は見られなかった。代わりに見られるのは兵士の装備の自動化のデモンストレーションだった。LEDで装飾されたドローンなどを使いながら「未来的な装備」が強調されている。韓国のボーイズバンド2PMのテギョンが参加して話題になった。つまり、単なる軍需品のデモというよりは「国民受け」を狙っているのである。

日本で軍需装備品というと、役に立つのか立たないのかよくわからないオスプレイをアメリカから買わされたとか、北朝鮮からミサイルが飛んでくる危険性が低減しているのにミサイル防衛システムを導入しようとして山口県の地元から反対運動が起こるというようにどこか現実離れした印象がある。政治家にも国民にもあまり戦争のイメージがない。一方、韓国では北朝鮮が現実の脅威なので、兵器のデモンストレーションも現実的なものとなる。

また、アイドルや一般国民が「軍をお祝いする」というような演出もされていた。軍はいわゆる「暴力装置」であり国民や周辺国を抑圧し得るので、あえて「国民とともにあって歓迎されていますよ」という現実的な演出が必要になるのだ。未来的な装備も「国民を守るため」と説明されていることからわかるように、軍隊のある韓国ではきちんと説明責任を果たさないと国民の納得が得られないようになっている。つまり、軍を認めてきたからこそ、その存在を国民がきちんと考えなくてはという気持ちが生まれることになる。

一方で自衛隊は「軍なのかそうでないのかよくわからない」ので、解釈次第で任務を拡張する余地が生まれる。南スーダンやイラクで日報を隠したり、制服を入れ替えるのに10年かかるというようなところから見ると、かなり粗末に扱われていることがわかる。最初の方こそそれなりに騒いでいたがやはり政争の道具に過ぎないので、そのうち何も言われなくなってしまった。

最後には祝賀式典として江南スタイルで有名なPSYが出てきて英語の歌などを交えたショーを行った。日本の感覚からすると「ふざけているよう」に見えてしまうのだが、これも親しみを持たせなければ支持が得られないという演出なのだろう。日本人の目から見ても「かなり変わったな」と思えるショーなのだが、やはり韓国の保守派の人たちはかなり怒っているようである。

ムンジェイン政権は国民へのアピールを狙ってテレビで多くの人が見られるように夜に式典を行ったというが、中央日報は次のように批判する。

しかし今回は韓半島(朝鮮半島)の軍事的緊張緩和局面であるため、政府が南北関係を念頭に置いて国軍の日の行事を減らしたのではという懸念もある。キム・ジンヒョン元部長は「国防部が今年の国軍の日の記念式で芸能人を動員した楽しい行事という点のほかに、どんなメッセージを見せようとしているのか正直心配だ」と語った。

中央日報は社説でも「韓国軍の士気が落ちる」として批判的だ。中央日報、東亜日報、朝鮮日報はそれぞれ保守の新聞のようで、ムンジェイン大統領の左派的な姿勢が批判されているものと思われる。朝鮮日報も「北の顔色をうかがった」と手厳しい。

一方、1日の「国軍の日」記念式は市街地におけるパレード抜きで、夜に戦争記念館(竜山)の「平和の殿堂」での公演を中心として慎ましく執り行われた。「北朝鮮の顔色を見た」せいで行事が縮小されたのではないか、という指摘もあった。

ハンギョレ新聞は平和的な式典だったと概ね好意的な見方をしている。

どちらが正しいのかは正直よくわからない。さすがにPSYはやりすぎかなとも思う。しかし、こうした議論が行われること自体は民主的なことと言える。軍隊を持っているからこそ議論が成立する。

一方、日本では自衛隊を中途半端な状態に留め置いているのでこうした議論そのものが行われない。さらに、軍隊をおもちゃにする自民党が自分たちの解釈で「侵略戦争さえしなければあとは何をしてもいいんでしょ」と開き直っている状態だが、軍隊そのものが定義されていないので憲法で軍隊の玩具化に歯止めがかけられない。軍のような軍でないようなという地位に止めておくことで、却って「なんでもあり」の状態になってしまっていることがわかる。自衛隊を無力化して災害対応組織にすることも考えられるのだが、今度は米軍への依存が強まる。米軍は本気で日本を守ってくれることはないだろうし、米兵は日本国内でやりたい放題に振る舞うようになるだろう。トランプ大統領のように撤退を仄めかしつつ市場の解放を求めてくることすら考えられる。

もちろん、今の安倍政権に憲法というおもちゃを渡すわけにも行かないのだが、いわゆる憲法第9条の護憲派の人たちは間接的にこれに加担していることになる。現実的な議論が求められるが古くからの護憲派に過剰適応している限り、野党は議論を始めることすらできないだろう。