政治を「たかがお話」と見ることの重要性

先日来「お話」について考えている。安倍政権は嘘の政権であり、民主主義はよくできた宗教であり、竹中平蔵は某国の記号だというようなお話を考えた。今回は「政治とお話」そのものについて考える。政治をよくできたフィクションだと考えることにどんなメリットがあるのだろうか。

安倍政権は嘘の政権である。もともと自民党の行き詰まりから生まれた政権である。自民党は過去の政局を通じて利権団体を自己破壊してきた。最終的に生き残ったのは政局と選挙を優先する人たちであり、そのトップが実務経験のない安倍晋三さんである。

安倍政権は官僚組織の運営ができなかったのでちょくちょくと数字をごまかしたり官僚に嘘をつかせたりするようになった。ところが、野党の側は安倍政権の嘘を「証明」できていない。これにはいくつかの理由がある。

第一にこの嘘が集団思考によって生じているという問題がある。実は、嘘が証明できるのは誰かが主体的に嘘をついている場合だけなのである。集団が結果的に生じさせた嘘は誰も断罪できない。責任者に嘘の自覚がないならなおさらである。

安倍政権には実務家がいないので、実際にロジックを考えたりするのは民間と称するお友達と官僚の連合組織である。彼らはいろいろなところでちょっとしたごまかしを行っているのだが、一つひとつの嘘が小さすぎるので証明が難しい。丸投げして「なんとかしてくれ」という人がいるだけで「嘘を統括している人」はいないので、全体としては誰が嘘をついているのか証明できない」ということになる。このため野党は5年以上も「嘘の証明」という徒労に時間を費やしてきた。そしていつのまにか「嘘を証明しないほうが悪い」という不思議な状況が生まれている。野党の「真実の追求路線」はすべて無駄だったことになる。権限も調査権もない占領軍が東京裁判をやるようなものだ。

事実として認定できないのだから「お話」で対抗するしかないという事情がある。事実によって全容がつかめないので、仮説を立てて説明するしかないわけだ。

しかし、理由はこれだけではない。次の問題は「大きな物語」という誤解である。

もともと政治は足した問題ではない。単に、生活の意見調整をやっているだけである。ところが、国家とか政治という言葉が出てくると、みんななぜか「とても立派なことをやっているのではないか」と思い込んでしまう。そして「どこかに真実や正義があるのでは」と考えてしまうのだ。

政治は立派なものと思い込むことで、それについて語っている俺はかっこいいという誤解も生まれる。このブロクのコメントにも「返事はいらないが師匠と呼んでいいか」というコメントがついた。この人はまだ書き込んでくれているからよいものの、「何か崇高なことを語っているのでは」と思い混んでいる人が出てきている可能性が極めて高い。

勝手に誤解してくれる分にはいいのだが、物語に飲み込まれるのは厄介なので、政治で真実や正義を追求したい考えるのはやめたほうが良いと思う。

例えば「護憲運動」は平和という正義を追求する宗教のようになっている。こうなってしまうと本来の目的は失われ、憲法第9条を守ることだけが自己目的化する。自衛隊は世界有数の(ランキングによっては第7位としているものがあるそうだ)海外へも派遣されている軍隊なのに、交戦権は認められておらず、中には「人殺し」と罵ってくる人もいるそうだ。だから、第9条を御神体のように守っても誰も幸せになれない。

平和主義が大切なのはそれが単なるお話だからである。国と国との相互不信は簡単に戦争につながってしまう。人間が本質的に平和な存在であるということは言えないのだが、お話があるおかげで戦争という理不尽な出来事を相対化して防止することができる。それが経済の安定と成長につながってゆくのだし、理不尽な戦争による死や犠牲を防ぐことができるということを我々は歴史から学んだ。人は平和主義が単なる虚構にすぎないことを知っているからそれを守ろうと努力するのだ。人権も同じことで、これも絶対的な正義ではない。だからこそそれを守ろうとする力が働くわけで、片山さつきがいうように「人権などを与えたら国民は怠けて何もしなくなる」ならばそれはそもそも人権の追求ではない。

最後の理由は、最初の二つの理由を理解できればわかりやすくなる。物語として政治を語ることで、物語に支配されている人たちが客体化できる。そもそも安倍首相が嘘をついてまでお友達に分配し、オリンピックが本当の支え手であるボランティアの労働を搾取し広告屋さん、ゼネコン、人材派遣業者にお金を回し、東京都が築地移転問題で真面目に働いている仲卸や黙々と江戸の伝統を守ってきた寿司屋を犠牲にして土地を転がしたがるのはなぜなのだろうか。それは、彼らが「そうでもしなければ自分たちが先にやられてしまう」と認識しているからだ。

いわば彼らは壮大な椅子取りゲームを戦っており相手の足を引っ掛けてでも椅子を取らなければ生き残れないと感じている。そして、それは自己実現してしまう。つまり、経済を椅子取りゲームだと考える人が増えれば増えるほど、そのゲームに参加する人が増えてしまうという仕組みになっている。すると、人件費は削られて消費が低迷し、教育費が削られて日本の技術力が落ちてゆく。これは事実といえば事実だし、単なる思い込みにすぎないと言われれば思い込みにすぎない。つまり、物語と事実の間にそれほど大きな境目はないのだ。

かといって「人生は椅子取りゲームではない」と一人で考えてみても何の役にも立たない。そう思い込んでいる人が多いからである。まず最初にやるべきなのは「人生は椅子取りゲームだと思い込んでいる人が多い」ということを認識することだろう。

物語をうまく利用すれば問題の客体化ができるので、余計な悩みを抱えなくて済むようになる。思い込みを捨てると、経済とは誰かが何かを手放すことで別の人が何かを得られる仕組みであるという当たり前のこともわかる。

一方で、物語の利用にはデメリットもある。物語はわかりやすく物事を伝えるのと同時に、人々を没入させる。

安倍首相は嘘つきだと言った場合、いつのまにか安倍首相が取り除かれれば嘘はなくなってしまうという虚偽の類推が生まれかねない。竹中平蔵も同じで竹中さんがいなくなったからといって「労働者を人権の制約抜きに便利に使い倒して自分だけがいい思いをしたい」という気持ちが消え去るわけではない。物語は問題のアウトラインをつかむために重要なのであって、それ以上でもそれ以下でもないということを認識しておくべきだろう。

日本人はこうした物語を小さな集団で共有することで組織を維持してきたのだろう。明治維新には元勲という集団核があり、戦後政府には吉田学校という集団核があった。それが消え去ることで物語だけが生き残り、今の集団思考的な瞑想を生んでいるのではないかと思う。もともと、日本は物語によって動いてきた国なのである。

物語と知って人を動かす方は「誰にも理解されない」という寂しさを抱えるのではないかと思う。逆にみんなが馴染んだ物語に没入したほうが楽ではある。ただ、不安や没落してゆく恐怖が物語になった世界では人々は終わることのない不安に追いかけられることになる。そして、そこから抜け出すためには、まず、少数者に戻って「これが物語である」ということを知らなければならないのである。