豊洲移転騒動の原因となった対話できない私たちの社会

豊洲が新市場に移転した。この報道を見ていて最初は「報道管制があるのでは」と思った。だが、しばらくワイドショーを見ていてそうではないということがわかった。これをTwitterでは「制作会社の内戦状態だ」と表現する人がいた。テレビ局がある視点を持って問題を追っているわけではなく、各制作班がバラバラに情報を追っているのである。

よく我々は「テレビが情報を統制している」とか「あの局は偏っている」などということがあるのだが、実は今のテレビ局は自分たちが何をして良いのかがわからなくなっているのではないだろうか。かつてはテレビ局の中に村があって、その村の意見がそのままテレビ局の意見になっていた。SNSがないので全国民がこの「村の意見」を一方的に聞くしかなかったので、結果的にテレビ局は国民の意見形成に影響を持つことができた。だが、この村がなくなることで、私たちの社会は共通認識を持つ能力を失った。あるいは最初からそんなものはなかったのかもしれない。

現在でも例えば「与党対野党」というようなはっきりした構図があるものは意見がまとまりやすい。永田町記者クラブという村の意見がそのまま全国の意見になるからだろう。しかし、築地・豊洲のような「新しい問題」には対処できない。築地・豊洲問題には核になるお話を作れる村がないからである。

実はこの問題は豊洲の混乱そのものともつながっている。豊洲は明らかに目的意識が異なる3種類の人たちがそれぞれの物語に固執しつつ「どうせわかってもらえない」という諦めを持ったままで仕事をしている。これは結果的には経営の失敗を生む。端的にいえば数年後に東京都民は「市場会計の赤字」という問題を抱えるはずだ。すでにこれを指摘している識者もおり、テレビ局の中にはこれを理解している人たちもいる。しかし、その認識が全体に広がることはなく、問題が具体化した時に「想定外」の新しい問題として白々しく伝えられるはずである。

今回は主にフジテレビとTBSを見た。まず朝のフジテレビは「今日は豊洲への市場移転だ」というお祭り感を演出しているような印象があった。若い藤井アナのたどたどしいレポートをベテランの三宅アナが盛り上げるという図式で演出していたのだが、手慣れた三宅アナが盛り上げようとするたびに虚しさだけが伝わってくる。

だがこの目論見はうまく行かなかった。まず渋滞があり、続いてターレが火を吹いたからだ。小池都知事もいつものように前に出てくる感じではなく「早く終わって欲しい」という感じが出ていた。彼女のおざなりな感じは短いスカートに現れているように思えた。気合を入れたい時には戦闘服と呼ばれる服装になるのだが、どうでもいい時にはどうでも良い格好をしてしまうのである。

この時点からTwitterではネガティブな情報が出ていた。まるで世界には二つの豊洲新市場があるような状態に陥っており、マスコミが「嘘をついている」という感じが蔓延していた。実際には「お祭り感を演出して無難に終わらせたい」東京都の意向を受けたテレビ局と現場の対立が二つの異なる世界を作っているように思えた。

午前中は、TBSも豊洲を推進する立場からの放送をしているように見えた。恵俊彰の番組では「2年の間すったもんだがあったが、全て解決した」という態度が貫かれており、早く終わらせて次に行きましょうというような感じになっていた。八代英輝という弁護士のやる気のないコメントがこの「事務処理感」を効果的に際立たせる。

いつも「俺が俺が」と前に出てくる恵俊彰は一生懸命に「豊洲に移転できてよかったですね」感を演出していたのだが、専門家や業者さんたちの様子は冷静だった。彼らは問題があることも知っているのだが、ことさら移転に反対という立場でもなさそうだ。恵俊彰が得意とする、下手な台本を根性で料理しようとする感じが床から0.5cmくらい浮いていた。彼らは時に「体制派なのでは」と誤解されることが多いのだが、実は何も考えていないんじゃないだろうかと思う。

様子が変わったのは午後のフジテレビだった。安藤優子らが問題のある豊洲について報じていたのである。朝の情報番組とは様子が全く変わっているので、テレビ局としての統一見解はないのだと思った。この番組は視聴率があまり芳しくないようなので取材に人が割けない。彼らはTwitterで拾ったような情報を紹介して「問題が起きている」というようなことを言っていた。TBSでは築地に人が残っていざこざが起きたことも紹介されていた。

面白いのは安藤優子が長年の勘で問題をかすっていたところだった。「除湿機がないならおけばいいじゃない」と言っていた。聞いた時にはバカバカしい戯言だと思ったのだが、実はこれが本質なのだ。週刊文春を読むとわかるのだが、実は安藤のアイディアは一度採用されていたが「通行の邪魔になる」として撤去されていた。そして文春はなぜそうなったのかについては分析していなかった。安藤の不幸はこの「ジャーナリストの勘」を深掘りしてくれる人がいないという点だろう。意識低い系ジャーナリストである大村正樹には興味がない。

この市場はコールドチェーンとユビキタスを売り物にした市場建築である。これも広く指摘されているが、簡単にいえば巨大な冷蔵庫である。冷蔵庫が冷蔵庫として成り立つためにはドアがいつも閉じられている必要がある。しかし、これまでのオープンな築地に慣れている人たちはこれを理解していない。このため冷蔵庫のドアは開きっぱなしになってしまう。そこで温度湿度管理がめちゃくちゃになるという具合である。ユビキタスに関しては理解さえされないだろう。コンピュータで在庫管理できてレシピも検索できる冷蔵庫が主婦に理解されないのと同じことである。つまり、そんなものは売れないのだ。売れないからユーザーのいうことを聞かずにとりあえず作って押し付けたのかもしれない。

多分、フジテレビは当初東京都のオフィシャルな人たちからしか情報を取っておらず、午後はこれにTwitter情報が加わったのだろう。これを全く分析することなしに単に紹介して「報道した」ような空気を作っているわけである。さらに安藤優子の番組と小倉智昭の番組には人的交流がないのではないだろうか。小倉の番組に出ている識者の中には経営問題を指摘している人もいるので、彼らが交流していればこの「冷蔵庫の失敗」に気がつけていたと思う。が、彼らにはもはや目の前で起きていることから学ぶという能力はない。能力が低いわけではないと思う。だがお互いに話をしないのだろう。

豊洲で温度湿度管理がうまくゆかず、道路渋滞で近づくことすらできなければ、他の市場から魚の買い付けをする人が増えるはずだ。実はこれも情報が錯綜している。自分が指摘したから通行が改善されて問題がなくなったのだと主張する記者や、噂が広がり豊洲離れが始まっているとする「一般業者」の声を伝える人たちもいる。

すでに週刊ダイヤモンドが指摘している通り豊洲市場は物流量がV時回復することを前提として経営計画が作られている。ところが実際には品質管理の問題と周辺の道路事情の問題などから「豊洲離れ」が起きかねない状況になっている。これを築地の売却益(もしくは運用益)だけで穴埋めし続けることはできないのだから、将来的には東京都は「これをどう穴埋めするか」という問題に直面する。しかしその時には担当者も(多分都知事も)変わってしまっているので誰も責任を取ることはないだろう。

テレビ報道の混乱だけを見ていると問題がよくわからないのだが、週刊誌情報を入れると実はそれほど難しい問題が起きているわけでもなさそうだ。多分、東京都は当初「コンピュータで物流管理された巨大な冷蔵庫」というコンセプトを持っていたのだろう。ただこれを「ユビキタス社会に適用したコールドチェーン」と格好をつけて言ってしまったために誰にも理解されなかった。さらにここに「巨大なバカの壁」である小池百合子都知事が登場したことでさらにややこしくなる。小池さんは自分でも理解できない専門用語をニコニコと語るのが大好きなのである。

しかし、築地の現場の人たちが「巨大な冷蔵庫」を欲しがっていたとは思えない。彼らが欲しかったのは「今まで通りに好き勝手に出来る柔軟なスペース」である。多分、壁や柱などは直して欲しいとは思っていたのだろうが、それ以上のことは望んでいなかっただろうし、ハイテク冷蔵庫はお金もかかるので小口の業者がついて行けなくなるだろうなという予測は立ったはずだ。

政治家はそもそも、これが冷蔵庫だろうがこれまで通りの市場だろうがそんなことはどうでもいい。彼らは「銀座の隣にある平屋の土地」が地上げできたら自分の懐にはいくら入ってくるだろうということを夜な夜な会議室や料亭で考えるのが好きなのである。なぜ彼らがそれに惹きつけられるのかはわからないが、多分それが好きだからなのではないだろうか。高級なお酒やお寿司の味が美味しく感じられるのだろうが、それが誰の手で作られているのかというところにまでは関心が及ばない。

テレビ局の関心は視聴率だけなので、何のために情報番組を作るのかという意欲や方向性は失われている。だからお互いには競争の意識は働いても協力の意欲はない。ところが、取材対象である東京都と市場関係者の間にも意思疎通がなくなっている。つまり、理由はわからないが、日本全体で同じような「協力し合わない」という問題が起きていることになる。

社会に共通認識がないゆえに築地・豊洲問題には正解がないのだが、市場離れだけは確実に進んで行く。だから、最終的に東京都民の目の前には巨額の請求書が突きつけられるはずである。

この問題は共通認識を持てなくなってしまった社会の混乱がそのままの形で「プレゼン」されていると考えるとわかりやすい。目の前に見える景色は単なるカオスである。このまま進めば同じことがオリンピックでも起こるはずであり、その混乱は国際社会を巻き込んださらに大きなものになるだろう。

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