アメリカ人はどれくらい議論をするのか

Twitterを見ながら今日は何について書こうかなと思っていたところ、日本人と議論についてのつぶやきを見つけた。多分テイラー・スウィフトを見た感想だと思う。テイラー・スウィフトの表明でリベラル系の登録者が増えたとされているので、それを日本でも広めるべきだという意見がある。それをやっかんだ人が「日本の芸能人は政治的に意見を言わないといっているが、普通の日本人でも政治的な話はしないだろう」というような意味の書き込みをしていたというわけである。

確かによくある議論で、これを一般化して「日本人は議論をしない」という話をよく目にする。ではアメリカ人はよく政治的議論をするのだろうか。だとしたらアメリカ人は何のために議論をするのか。

アメリカの地上波は昼にソープオペラと呼ばれる主婦向けの番組を流し、夕方にはニュースをやる。その間を埋めている番組の一つにオプラウィンフリーショーという番組があった。1986年から2011年まで放送されていたそうである。Wikipediaではトークショーとして紹介されているのだが、このトークの内容が実は議論担っているものが多い。だが、やはりこれは討論番組ではない。

試しにYouTubeで「the oprah winfrey show discussion」と検索してみた。議論には本の作者が持論を展開するもの、政治家が批判に答えるもの、普通の人たちが自分の体験について語るものなどさまざまな形式のものがある。英語がわからなくても「喧嘩をしている」ように見えるものがあるはずだ。意見が別れる(英語ではcontroversialという)見解をよく扱うのが、オペラウィンフリーショーの特徴だった。

例えばこの議論では、ムスリムのアメリカ人が9.11のあとに自身の体験を語っている。この後、ブッシュ大統領はこの時の憎悪感情をナショナリズムに利用し中東への戦争へと傾いてゆくのだが、その前夜といえる。

彼らは訓練された人たちではない。途中でオプラ・ウィンフリーがムスリムの人たちに拍手されるところがあるが彼女は「普通の白人のアメリカ人」に「あなたの考えるアメリカって何なの?」と聞いているからだ。つまり、司会者は政治的に中立のポジションを取っていない。

この番組帯を見ているのは主に昼間に家庭にいる主婦か子供である。つまり「普通の人」が議論している番組を「普通の人」が見るのがアメリカなのだ。そして彼らはControversialだから見る価値があると感じている。それくらいアメリカ人は対話が好きであり、対話は議論になる。

対話が結果的に議論になるというのがアメリカの特徴なら、対話そのものが起こらないのが日本式である。このために日本では本音を語らせるために議論の体裁をとるという手法が考えられたが、それでも誰も本音を語ることはなかった。例えば田原総一郎の朝まで生テレビでは「訓練された」人たちが「議論をするために」集まってきて「議論が好きな人」が見るという番組になった。つまり議論はお金を貰うための道具であり、相手に理解を求めたり社会的な解決策を導き出すための手段ではないのだ。

また、議論をしていると自然と「リベラル対保守」のような枠組みが作られる。他人に鑑賞してもらう議論なのでキャラを作る必要があり、そのキャラと技術を品評するのが日本の議論と言えるだろう。朝生の議論はこの過程で曲芸化してゆく。ここからネトウヨ雑誌のスターがうまれ、これが政治的に取り入れられたのが「ご飯論法」である。それ自体が曲芸であり鑑賞の対象なのだが、そもそも国会はショーではない。

アメリカ人は対話のために議論をする。つまり彼らには解決したい問題がある。もう一つ重要なのは民主主義国家では一つの共存すべき空間があるということだ。これを「公共」と呼んでいる。日本に議論がないのは、共存すべき空間がないからである。お互いに村に住んでおり資源の奪い合いや譲り合いが起きているので、そもそも対話も議論も発達しない。

「みんなが好き勝手にいろいろ言い出したら収拾がつかなくなるのでは」と恐れる人たちも出てくるのではないかと思う。それは日本にはマネジメントスタイルが三つしかないからだ。

  • 「昔からそうなっている」:つまり、自分の前の担当者はそうやっており、自分もその真似をしてやっているということである。その前はどうなっていたのかはわからない。
  • 「みんなそう言っている」:居酒屋で愚痴交じりに文句を言ったら同僚の一人が同調してくれたので、多分みんなもそう思っているのだろう。
  • 「コミュニケーションを円滑にしろ」:専門分野の細かいことは俺にはわからないから、現場で適当に話し合って解決しろ。俺は成果だけがほしいのであって、お前らの保護者ではない。

だから、日本のマネジメントスタイルの根本は「みんなに我慢させること」である。マネージャーは自分が知っているやり方でしか組織が管理できない。だからそこから外れたことがあっても我慢して文句を言うなとしか言えないのだ。

しかし、議論は何も政治的なことばかりではない。日常生活の中にも議論はある。

昔みたフレンズのエピソードの中でスターバックスを念頭に置いたセリフがあったのを思い出した。スターバックスでは短い時間の間にカフェイン入りにするかそれともカフェインなしにするかとか、ミルクは普通のミルクにするかソイミルクにするかなど様々な選択を迫られるというのである。つまり、こうした選択にプレッシャーを感じている人もいるということになる。さらにその選択によってこの人はつまらない人だなど評価される可能性もある。デキャフを選んだ人はその理由を他人に説明しなければならないし、それも議論の対象になる可能性があるということだ。選択は価値観を意味し、それはその人の本質だと見なされる。表明されない意見には意味がないというのものアメリカ式だ。

このフッテージではロスがフィービーに「進化は確かな科学的真実である」と説得しようとしている。最終的にはロスがフィービーに説得されてしまうのだが「あなたの信念ってそんなものだったの?」とからかわれるというのがオチになっている。

こちらでは、ファーストキスがどれくらい大切かについて男性と女性との間で意見の隔りがある。男性が女性に同意する必要はないが、それでは「彼女ができなくなる」と脅かされている。ここでいうコメディアンはコンサートの前座のことである。

フレンズには様々な議論が出てくるが大抵はくだらないものであり、理由付けも雑なものが多い。それでも、自分の言いたいことを言って、お互いに心地よい空間を作ってゆくのが友達であるという前提がある。だが、日本のマネジメントは友達の間であっても基本的には「我慢する」ことなので、誰かが自己主張を始めたらみんなで足を引っ張って潰してしまう。「話が崩れる」とか「しらける」というのがそれである。日本人は意見が違う人を見ただけで「自分は否定された」と感じてしまう。アメリカ人はお互いを理解し合うのが友達だが、日本人は君は間違っていないと相互承認して慰めあうのが友達である。

さらに、自分に関係がない空間がどうなっても構わないので、Twitterのような空間でだれかが自己主張をすると、ご飯論法などを交えながら「お前が言っていることは実にくだらない」といって潰そうとするのである。普段から我慢しているので、相手の意見だけが通ると「損をした」と感じてしまうからだろう。

このことから日本人は言語や脳の構造が非論理的だから議論ができないわけでなく、そもそも対話そのものが成立しにくいということがわかる。このような状態で不特定多数の好感度を前提とするテレビタレントが特定の政治的ポジションを取れないのは当たり前だ。タレントとは相手の好ましい思い込みが商品になっているので、それをつぶすようなことは言えないのである。

しかし「アメリカがこうだから未来永劫アメリカ人は対話や議論が得意」ということにはならない。

今回ご紹介したプレゼンテーションでは普通のアメリカ人が「それは本来のアメリカでない」として集団に沈黙させられてしまっている。この「普通のアメリカ人」を代弁したのが実はトランプ大統領だったのだろう。トランプ大統領は小学生のように腕をぶんぶんと振り回して「そんなのは全部デタラメだ」と主張して、これまで発言できなかった「普通のアメリカ人」を満足させた。

逆に日本では「普通の日本人は政治的な発言をしない」ということになっているが、これも大きな揺り戻しを経験する可能性がある。安倍政権化の数年間でわかりやすく政治が劣化しているからである。

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