日本人はなぜ韓国崩壊論が好きなのか

Twitterで何かブログに使えるネタはないかなと考えていたところ「韓国崩壊論」が飛び込んできた。以前、ある経済学者徒渉する人がこのネタで一山当てた人がいたなと思ったが未だに人気のようだ。それにしてもなぜ日本人は韓国経済崩壊論が好きなのだろうかと思った。

論を読んでみたが、外貨準備高が少ないので経済基盤が脆弱であるという主張だった。確かに当たっているところはあるが、結局願望に接続されている。

外貨準備高が少ないことにはメリットもある。外資を当てにせざるをえないので新しいアイディアが入って来やすい。常に投資家にアピールする必要があるからだ。このため経営論が更新されるので、結果的にサービス産業に特化した経済構造ができやすい。いわゆるIMF危機で経済が動いた時に「なんとなしなければ」と思った人も多かったようだ。

一方日本経済は資産を蓄積してしまっており外から資金を調達する必要がない。すると経営者が変わらないので古い経営知識が温存されやすくなる。足元では労働力の崩壊が起きており非正規社員依存も強まっているのだが、経営者と正社員層は相変わらずであり、これがいろいろな問題の原因にもなっている。日本は「衰退してゆくなりになんとかなっている」ので構造が変化しない社会と言えるだろう。結局変化を先延ばしにしているだけなので、構造が変化を吸収できなくなった時、津波のように救い難い変化が押し寄せる可能性がある。理想的には小さな変化が常に起きている状態が一番良いのだが、韓国はかなりショッキングな経済挫折体験をしているのでその対応も進んだものと考えられる。現在も実は失業率が増えているので「安閑としていられない」という気分が継続しており、競争社会が維持されている。

いずれにせよ、こうした崩壊論は基本的には「相手が聞きたい歌」を歌って聞かせるのが目的なのだろう、こうした分析よりも「韓国経済はいずれ崩壊する」という歌の方が耳障りがよい。では人々はなぜお金を払ってでもこういう歌が聞きたいのか。

韓国経済が伸びると「日本が得るはずだった利益」が韓国に取られてしまう可能性があるばかりか、自分たちが不調であると感じられて「惨めになる」と思う人が多いのだろう。LGBTも同じで「あいつらの主張が受け入れられてしまえば、いつも我慢している自分たちが惨めだ」ということになる。成功している人を憎んだり、対話を要求する人を無視したりして相手が苦しむのを見るのが好きな大人が多いということになるだろう。

実際にこうした歌「だけ」が売れるという現状がある。ワイドショーを見ていても「悪いことをした人たちが、我々の社会の常識によって裁かれて落ちてゆく」という題材と、自分を捨てて勝負に邁進した人が勝利したのでこれからも自分を捨てて「日本のために戦ってくれるだろう」という題材だけが生き残っている。

彼らがこういたマインドセットを持つのは、個人競争前提の教育を受けて安定はしているがマネージメント枠が限られたサラリーマン生活を送ってきたからだろう。特にバブル崩壊以降は若い頃の格安労働の見返りが得られるポストが減ってしまいゼロサムですらなくなっている。平成は結局、相手を脱落させて新しい有資格者(正社員)が入ってこないようにしないと利得が守られないという時代だった。選ばれた人はいつまでもこうした利得にしがみつけるが、定年してしまうとやることがなくなり、政治や国際経済に新しい生きがいを見つけているのではないだろうか。つまり、こうしたマインドセットはDNAに刷り込まれているというようなものではなく、環境と教育によって形成されたものと考えられる。ただ、作る側のテレビ局にもこうした椅子取りゲーム的な正規・非正規の構造があり、受け手側の退職者たちも同じような世界を生きているので、共鳴しやすいのではないかと思われる。

こうした協力できない姿勢がよく表れているのが政党間協力である。自民党は税外収入(つまり政府の借金のこと)の使い道を自由に差配できるので派閥内での協力ができる。ところが、野党にはこうした求心力が働かないのでいつまでたっても協力体制が整わない。すると党内での発言力を巡って争いが起きる。とはいえ野党に政策立案の能力と意思はないので問題になるのは他者との距離である。自民党と協力して利権を分けてもらいたい人たちと、選挙に勝つためには共産党と共闘して戦った方が得だと考える人たちの間の議論になっているようだ。前者は「憲法改正議論に参加しよう」と言っており、後者は共産党と選挙協力をして安倍政権批判を強めようと言っている。日本人が相手との距離感にどれだけ敏感なのかがよくわかる。いずれにせよ有権者には関係のない話なのだから野党に支持が集まることはない。

こうしたマインドセットを作っているのは、弁護士出身の議員と官僚出身の議員たちである。彼らには共通点がある。官僚は決められた法律の中で動き回る人たちなので法律を制約と考える。さらに失敗すると浮びあがられない。加えて予算の額は限られていて自分たちで動かせない。彼らは日本教育の成功者なのだが、そのゴールは「変化せず総枠が決まった」ゼロサム社会なのだ。弁護士も「今ある法律を利用していかに有利に物事を運ぶか」という職業なので、環境を動かして物事を拡張させてゆくという発想はできない。だから、彼らは基本的に協力して環境そのものを変えるという発想ができないのだ。

つまり、野党は今まで成功してきた人たちだからこそ政権が取れない。言い方を変えれば「教育に洗脳されている」から協力できないのである。協力ができないから、妥協したり話し合ったりして政策がまとめられず、だから政権も取れない。

こうした洗脳を施したのは誰なのだろうか。例えばGHQあたりが怪しい。だが、この仮説は簡単に棄却できる。なぜならば、戦前の体制も似たようなものだったからだ。軍部は立憲君主制という枠を崩すことはできなかったが、自分たちは立憲君主制の枠外にいると主張することで制約から逃れ「大陸進出」という成果をあげた。しかし「失敗すると失脚する」という構造は変わらなかった。そこで失敗を認めず言葉の言い換えによってさらに暴走した。天皇を中心とした田布施システムも怪しいのだが、天皇が結果的に傍観者に置かれたところを見るとこれもあまり説得力がない。

日本人はもともと協力しないのだ。

「成果だけを組織に差し出し、失敗は自分たちでなんとかしろ」というマネジメントには複雑なテクニック必要ない。だからこれが広がりやすいのだろう。実際に軍隊の下士官レベルの「殴るマネージメント」は日本のスポーツ教育に取り入れられ「成果」を上げているようだ。だが、この成果は国内では通用しても、選手を動機付けてコーチと選手が二人三脚で協力しあう文化のある海外組には通用しない。テニスの場合でも錦織圭も大坂なおみも海外組である。個人的にモチベートされた人たちだけが世界レベルの活躍ができる世界が日本の外側には広がっている。

いずれにせよ、野党は協力できないし、自民党の議員もお互いに協力しない。だから、安倍首相は「下手に議員間・省庁間で協力などしなくても自分に従ってさえいればよいポジションを与えますよ」という子供騙しのメッセージで霞が関と永田町をハックできてしまったのである。やりたいことがある人たちが違いにのみ着目して協力しないことは、なにも達成するつもりがなく権力維持だけが自己目的の人たちにとってはとても都合がよい。

「教育に洗脳されている」というのは単なる物語なので、信頼してもらう必要はない。ただ、この物語の結論は「単なる思い込みを捨てれば協力する体制は作れる」ということである。日本人は言語呪われていたり、DNAに協力や対話ができない遺伝子があるから協力できないわけではないのだ。

安倍政権の嘘が好きなら今まで通りのマインドセットを変えてもらう必要はないのだが、そろそろ次のステージに進むべき段階に来ているのではないかと、個人的には思う。

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