小川榮太郎と高橋源一郎

面白い文章を見つけた。高橋源一郎が新潮45を潰した「あの小川榮太郎氏」について論評しているのだが、それが無料で読めるのである。この論によると、小川榮太郎には文学を愛する青年という側面と安倍晋三を擁護する評論家としての二つの側面があるという。この二つは決して折り合わないだろうとも書いている。

ただ、ここに高橋本人を持ち込んで対比するとまた別の面白い絵が描ける。

小川榮太郎の文章を読むと文学という偉大なものに心酔しきっていることがわかる。文学といってもそれは古典文学である。クラッシック音楽も好きらしい。つまり「古くて偉大なもの」に依っている自分が好きなのである。そしてそれは文学界では受け入れられなかった。高橋の文章から引用する。

その候補作「川端康成の『古都』」について、選考委員の福田和也氏は「冒頭の(……)文章は、もちろん滑稽、諧謔として書かれているのだろうが、そうだとしても失笑をしか誘わない(……)批評文としても、完成度がきわめて低い」とし、同じ選考委員の町田康氏は「乙にすました文章が、なんでそんな言い方をするのか分からず」としている。小川さんは、書き直したようだが、おれの受ける印象も、15年前の選考委員諸氏のそれとあまり変わらない。

高橋ら文学界の人たちのなかにも非常にナイーブな文学好きという青年が住んでいて、それをあからさまに見せられると「気恥ずかしさを感じる」のではないかと思った。文学や評論の世界では受け入れられなかった小川だが、この後別の村から受け入れられる。それがネトウヨ村だった。

一方で、高橋源一郎の文章は短いながらも魅力的で軽妙な書き出しから始まる。これを読んで「これがお金になる文章なのだな」と思った。普段、ネットで新聞や雑誌の記事情報を読むことはあっても、文学界隈の人たちが書いた文章を読むことはない。そういえば以前文学者にとって文体と冒頭というのはとても重要なのだという話を読んだことがある。軽妙さが受けるのだろう。が、同時にどこか無理して明るくしているのではないかという違和感があった。普段、文学や評論などを読まないからだろう。最近最もよく知っている文学者は室井佑月なのだが、彼女をワイドショーで知っていて、たまに週刊誌の文章を立ち読みするくらいだ。あとは阿川佐和子だがこれもインタビューは読んだことがあっても小説は手に取ったことがない。

ここから、どの村にも匂いがあるが、そこに住んでいる人には気がつかないのだろうということがわかる。つまりどちらも村なのだ。

軽妙さというのは文章と距離がないと作れないように思う。高橋の文章には距離があるが、小川の文語による文章には「純文学とかクラッシック文学に浸っている俺ってかっこいいでしょう」という臭みがあり耽溺しきっている様子がわかる。これが「文学・評論界隈」では邪魔だったのだろう。普通の人にはわずかな臭みかもしれないが、同じ経験をした人たちにはかなり強烈な臭みとして感じられるのかもしれない。

結果から見ると既存の出版界では高橋は売れて小川は売れない。が、意外と似ているのかもしれない。それぞれの村の香りをまとっているのである。そして小川の文章は出版界の異端児的存在である別の出版社に受け入れられ結果的に売れてしまった。

小川にとって「何か大きなものに依る」という意味では、文学でも安倍でもどちらでもよかったのではないかと思われる。そう考えると小川Aと小川Bは完全に同一になる。だが、高橋の価値世界において、文学と安倍信仰は対極に位置する。重要なのは、街の本屋にはAとBの境がないということだ。だから最近本屋では楽して痩せられる本や手間がかからないおかず作りの本と並んで嫌韓本が山積みされている。

日本人にはイデオロギーはないと思っていたのだが、それは内心の価値体系から選び取ったイデオロギーがないというだけなのだとも思った。文学にしろ「保守」にしろ、みんなが選択している正解だという理由で選ばれているのだが、どちらも特定の環境によってたまたま作られた価値体系にすぎない。つまり、選択していないつもりでも選択をしているのであり、そこに属さない人が「対極」に見えるという共通点がある。

日本人の多くが無宗教といいつつ仏教や神道の影響を受けているのに似ている。自分が心地よく生きるために自己主張をすると我慢をしろと強要され、主張ではなく個人を攻撃することが許容される日本では、自己責任が生じる個人の選択を嫌う。かといって何も選択しないというわけではないのだ。

イデオロギーとこの村の違いは、イデオロギーがある程度個人が選択可能な論理的な構造を持つのに比べ、ムラオロジーには論理的な構造はなく経緯で決まり集団的であるという点だ。どちらが悪いとか下等であるいうことはないが、それぞれ欠点がある。イデオロギーは選択した時点でコミットメントが生まれ別の選択肢を排除したいという欲求が生まれる。ムラオロジーは村人の違いを吸収するが、一旦壊れると修復できない。つまり、環境が変化して他に魅力的な選択肢ができると過疎を起こすのがムラオロジーなのである。より一般的には暗黙知と言ったりする。構造としては町工場がメインの職人(実はメインとみなされていなかったかもしれない)の年満退職で崩壊するようなことが起こる。

高橋の文章の結論部を見ると、小川が分裂しているように見えているようだ。

「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。

高橋と小川は極端に異なっているとも言えるし、単に違うムラオロジーに受け入れられたというだけで大きな違いはないともいえる。それぞれのコミュニティは村を形成している。文学界には文学界ならではの「感覚」があり、ネトウヨ論壇にはネトウヨ論壇ならではの「感覚」があるのだろう。そしてそれらは同じTwitterで論じられ、同じ本屋で売られる。

このムラオロジーはジャーナリズムの世界にもある。最近消費税についてアプローチの違う文章をいくつか書いた。他罰的な文章は読まれやすいのだが、それよりもよく読まれている累計がある。これを勝手に「池上累計」と名前をつけた。もともと財政再建の材料だったものが福祉財源と説明されるようになった経緯を個人の意見をあまり入れずに書いた。マスコミはこの辺りの経緯を理解した人が書いており、経緯を知っている中高年読者が読んでいるので経緯をくどくどしく説明しない。だから背景を改めて説明すると多く読まれるのだと思う。これは「そこからですか?」といういわば池上彰的アプローチである。マスコミとその読者が村を形成しておりそれ以外の人たちが排除されているということなのだろう。これが、村人以外の人たちを遠ざけるのだ。新聞を読んで理解した位という人はどの年齢層にもいるのだろうが、入ってくることができないからである。

高橋の文章からは面白いヒントが得られるのも確かだ。立憲主義や人権の信奉者は、民主主義をどこか論理的に見ている。天賦人権のようにあるべき原則があり、それに従っていると経済的に優位な欧米とうまくやって行けるという実利もある。だが、安倍晋三や憲法第9条を文学として捉えると、かれらが「そうした価値観を嗜んでいる」という可能性が見えてくる。

例えばドストエフスキーを「非人道的だ」と攻撃しても無意味だ。彼らはその行間にある余韻を嗜んでいるのと同時に、世間的に認知された正解である古典文学でもあるからそれを好んでいるだけだからである。理論的に反論しても「わかっていない」ということになる上に、世間が正解だと言っているものが理解できない相手がバカなのだと考えることもできる。ゆえに理論的に反論したとしてもそれが彼らの心に響くことはないだろう。経験からきた正解は持っているが、明示的な知識に依存しているわけではないので、自分が変わることもないし相手を説得することもできない。日本で政治的な議論が二極化するのはこのためなのかもしれない。

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