Twitterの不毛なケンカを観察する

Twitterで不毛な議論をみた。「私の権利」について話している人に別の人が噛み付いている。その反論を「私」が延々としているのである。ちゃんと読んだわけではないので何を言っているのかはわからない。話は憲法論に及んでいるのだが内容が不毛だった。「憲法に書いていないことならなんでも正当化されるのか?」などといっている。例えば憲法に公用語の規定はないのだから、英語や中国語を公用語だと言っても妥当だというのかという具合である。

こうした議論は時間と労力の無駄だと思う。まずは議論に使う概念を一つ一つ洗い出す必要があるが、要は「俺の考えた世界」に関するクイズなので、当人が勝つに決まっている。そして、俺でない人はそれに従う必要も理解する必要もない。「俺の定義」とは関係のないところで生きているからだ。こうした俺クイズはTwitterの外でも行われている。自民党の憲法草案に関する議論も、天賦人権を「与える」と国民が怠けるとか、国が家族重視の価値観を訓示するのが憲法だとか、壮大な「俺クイズ」の連続だった。

議論にはいくつかの目的がある。例えば、選択肢Aと選択肢Bの長所と短所を調べ合う議論は生産性がある。が、そのためには議論をする人は共通の目的やテーマを持たなければならない。Twitterには共通のテーマや解決すべき問題はない。

もう一つの議論はある特定のイズムや信仰に基づいてその判断が正しいかを述べ合うというものである。生産性はやや劣るがこうした議論もあり得るだろう。だが、二極化した議論はそもそも共通のイデオロギーに基づかないので、議論は平行線に終わりがちである。さらに日本ではイデオロギーに見えるムラオロジーが多い。話をしているうちに「同じ民主主義について話をしていたはずなのに」何か全然違うぞということになりかねない。

日本人には公共という考えがない。ともに社会を作って行こうという気持ちを持った人はいないのだから、そもそも建設的な議論は成り立ちにくく、従ってほとんどの議論はマウンティングのための議論になる。

マウンティングはいつもどこかに集まって会議をする必要があるのだが、実質的には観客のいる闘技場で常に殴り合っているのと同じだ。声が大きいと意見が通りやすく、またたくさんの人から賛同を得られる意見も通りやすい。しかし、決まったルールはないから外から見ても何について話をしているのかさっぱりわからないうえに、声の大きい人が意思決定のルールそのものを変えてしまうので、最後には何をやっているのかすらわからなくなる。

例えばうまく行かなくなった会社はいつも会議が行われている。ここから外れてしまうと意思決定に加われなくなってしまう上に議論の経緯すらもわからなくなる。だから現場の声は伝わらないし、現場には意思決定の理由もわからない。現場が大切なはずなのに「支社に飛ばされる」などと表現されるのは、現場の声を拾って製品やサービスを磨くよりも、社内調整という名前の殴り合いの方が魅力的で給料にも差が出やすいからである。

そういう会社は大抵傾いてゆく。日本社会もそういうフェイズにあると思った方が良いだろう。例えば豊洲新倉庫(東京都は市場と呼んでいるようだが)はどうしてああなったのかがさっぱりわからないので、衰退が始まっているようである。

かつて日本の社会には大体の正解があった。例えば民主主義はよいものであり、アメリカはいい国だった。男は終身雇用で社員になるべきだったし、女性は短期間お勤めしたら家に入るのが幸せだった。だから、巷で価値観をめぐる議論はほとんど起こらなかった。

だが、正解がなくなってしまった現代では常にマウンティングが行われている。だが、それがまとまる見込みはない。相手のいうことを聞かず、何もしない人が優勝することが多いようだ。このままでは日本はめちゃくちゃになってしまうだろう。

個人的に不毛な議論にどう対応しているのかと考えてみたところ、相手に敬意を示した上で、なんらなの説明を求めていることに気がついた。破壊したり否定したりすることに熱心な人は自分の意見を組み立てられない。めちゃくちゃな議論を鑑賞するのは楽しいが大抵の人は黙ってしまう。否定したり冷笑することが楽しいのか、それとも自分で論を組み立てる力がないことに気づいているのかまではわからない。

もし、本当に議論をしたいならテーマとそれが適用される場所を最初に決めるべきだろう。ここで、世間一般を論拠にすると話が複雑化する。場所の限定はとても重要だと思う。例えば「世界では」とか「立憲主義のもとでは」とか「みんなが」と言った議論は成り立たないことが論拠としては使いにくい。

例えば民主主義や人権を守りたい立場の人はよく「世界では」というのだが、実際には西ヨーロッパや北米の裕福な地域くらいの意味合いのことが多い。例えば民主主義国ではない中国が台頭してくるとこの「世界では」は通用しなくなってしまう。すると民主主義を守る根拠が失われしまう。

また立憲主義のもとではというのも怪しい。憲法は変えられるし、憲法を変えなくても裁判で判断しなければ実質的に形骸化もできる。実際にそういうことが起きているので今は憲法を持ち出して民主主義を擁護するのも難しい。

「みんなが言っているから」という論は成り立ちにくくなっている。そこで改めて民主主義を擁護するには民主主義を勉強しなければならなくなるのだ。だが、これは勉強すればいいだけの話である。やってできないことはないだろう。

一方、保守の側も世界秩序というような言葉を使いたがる。アメリカは正義の側なのでアメリカと西側世界について行けばよいと考えている人が多いのだろう。東アジア情勢は流動化しつつあるので保守・愛国の役割は増すはずなのだが、保守の立場は左派リベラルより難しくなっている。安倍政権が「保守はバカのもの」という印象を振りまいているからだ。左派リベラルはスクラッチから議論を組み立てられるが、保守は退廃した状態から再出発しなければならない上に、実際には保守を自称する人たちの中から敵が出てくる上に、誤解して群がってくる人も多いだろう。

時間と意欲があるならTwitter上で絶対に終わらない議論をするのはその人の自由だと思うのだが、正解のなくなった現代ではその議論は決して収束しないだろう。それよりも考えなければならないことがたくさんあり、時には相手に訴えかけて見方になってもらったりもしなければならない。もちろん何に時間を割り当てるのかは個人の自由なのだが、できれば有益なことに時間を使うべきではないかと思う。

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