日本には村があっても公共がない

Twitterでメンションされた。「きっとお前は知らないだろうから広めてくれ」というようなことだったのではないかと思う。アメリカと岸の間で核兵器持ち込みの密約があったというのだ。一応読んでみて確かにこういうことがあったのかもしれないとは思った。でも密約なので日本側が「聞いていない」とか「もうやりたくない」といえばすむだけの話だろう。トランプ大統領はもっとおおっぴらにちゃぶ台返しをしているのだから、やってできないことはない。要は日本側にその意思がないのである。

だが、時々こういう「誰にも知られていないがひどい話」を訴える人をTwitterでみかける。何かの問題に火をつけたいと思っている人は多いのではないだろうか。最近では築地・豊洲の問題で「マスコミが伝えてくれない」というようなTweetが多かった。難民申請者の人権無視の問題ももう長い間「マスコミの関心が向かない」というようなツイートがあり、今回の入管法改正の問題(このブログでは奴隷輸入法案として少し煽った)はこの話にスポットライトを当てるきっかけになるはずだっったのだが、実際にはそうはならなかった。

それでも訴えたいことがある人のTweetに目を通してRetweetしたりはしている。しかし例えば築地豊洲の問題を見ているとそれに反応するのは「一部の界隈の人だけ」になってしまっている。どうやらある種のコミュニティができつつあるのではないかと思う。そして、これが誰か特定の人の問題になってしまうと、他の人たちは「彼らがなんとかしてくれるだろう」と考えて興味を持たなくなってしまうのである。人権の問題も「あの界隈の人たちが騒いでくれる」というような見込みがある。

本当に目を向けて欲しい問題について、広がりを持った人々の興味や関心を惹きつけるにはどうしたらいいのかということを考えた。解決策は思い浮かばなかったのだが、やはり公共という問題に戻ってきてしまった。日本人がこの問題を解決しない限り、自らの手で解決策を導き出すのは難しいのかもしれないと思う。

外から政治・経済ネタを書いていて思うのだが、政治・経済エリアの関心時は大きく二つに大きく分かれている。

今、参議院予算委員会を聞きながらこの記事を書いているのだが、自民党の関心事は「テレビ中継のある場所でどれだけ予算確保にお墨付きをもらえるのか」というものだ。日本人は公共を信じないので「自分が関係している村がどれくらい利権をもらえるか」だけが政治への関心事である。「イノベーティブな新しい技術があるのだが、それを実現するためには国の援助が必要」というような議論になっている。イノベーティブな技術ならすでに市場を通じて買い手がついているはずで、国に援助を求めるというのは、あまり見込みがないということである。そこで時間が余ると整備新幹線と高速道路が欲しいという。おらが村にも水を引いてくださいということだ。だが、財政再建の話はでてこないし、消費税でさらに国民に負担をさせるのだからどう切り詰めて行こうかという話にもならない。つまり、借金でもなんでもして足りなければ消費税をとってもっとばら撒けと言っている。今の国会議論はアル中になった人がもっとお酒をくださいというのに似ているのである。

一度虚心坦懐に国会議論を聞いてみればいいと思う。村が大変なので少ない水を自分の田畑に引き込みたい気持ちはわかる。しかし、そこに雨を降らせるのは一体誰なのだろうか。雨は自然と降ってくる。降らないなら借金をして降らせばいいし、人が足りないなら外国から連れて来ればいいというのが今の日本の政治議論だ。では全体の問題は一体誰が考えるのだろうか。天から救済策が降ってくると思っているようにしか見えない。

一方で村ではないところで感心を呼んでいるトピックがある。最近、このウェブサイトへのアクセスが増えているのは「自己責任」と「BTSの原爆Tシャツ」である。自己責任の記事の内容はちょっと忘れてしまったのだが、イラク人質事件を非難するために「自己責任」という用語が発明されたという説をご紹介したのではないかと思う。最近、小池百合子が使い始めたという週刊文春の記事が話題になっているので、また検索されているのだろう。BTS(防弾少年団)の原爆Tシャツ問題は国連で演説をして話題になっている防弾少年団のメンバーであるジミンが原爆を正当化するTシャツを着ていたという問題である。

この自己責任論とBTSの問題には共通するのは誰かに引き立てられている人を引き摺り下ろしたいという欲求だ。非難するためのお話を自前で構築するのも面倒なので筋道の立ったお話を求める人が多いのだろう。

政治課題はこのように二つの使われ方をしている。一方で村への水の引き込みがある。しかし、多くの人はもう村には属していない。その不安や苛立ちを誰かを引き摺り下ろすことでなんとかおさめようとしている人が多いのだろう。日常的に渋谷のハロウィーンが行われていると考えてよいのではないだろうか。

自己責任論問題で叩かれるのは組織の後ろ盾のない安田さんというジャーナリストである。フリーのジャーナリストというとなんとなく怪しい感じするし、組織に縛られずやりたいことだけやっている人には失敗して欲しいという気持ちがあるのだろう。一方、BTSもアメリカのビルボードで一位を取り国連で演説をしたBTSが羨ましいという気持ちがあるのではないだろうか。

いろいろ考えたのだが、日本人が政治課題に関心が持てず、かといって今の暮らしにも満足できないのは、自分たちで理想とする社会を描けないからだと思った。そもそも社会を自前で構築するという概念がなければそれは作れない。そして最初から立派な社会は築けないだろう。最初の一歩はとても小さなものになるはずである。

一般には公共(パブリック)というのだが、日本人は漢字の意味合いにとらわれている。公が「おおやけ」と読まれると、それは人々ではなく支配する側の社会や国家を意味する。みやけが天皇の家を意味するところから「やけ」にはそういう意味合いがあるのだろう。一方、英語のパブリックは人々のという意味のラテン語からきており人々が作り出すものだ。英語で公衆酒場をパブというところからそれがわかる。

同じように競争も意味が脱落した翻訳語になっている。英語のcompeteは共に+目的というラテン語の複合語が由来だそうだ。そこから人々が協力したり競い合ったりするという意味が生まれた。しかし元からあった日本語は競い+争うなので、協力という意味合いがない。このためTwitterには「日本人が競争すると足の引っ張り合いになる」と指摘する人がいた。過去にスパイト理論について調べたことがあるのだが、この指摘はある程度当たっていると思う。

そもそも日本人はまだ「自分たちの居心地の良い社会を共に協力したり競い合ったりして作って行こう」という気持ちが持てない。だからどんなに訪ね歩いても日本人から公共についての説明は得られないのである。

近視眼的に考えると、自分に関係のない問題に日本人を惹きつけるには、叩ける犬を探してきてそれを叩けば良いと思うのだが問題は全く解決しないだろう。その状態では、誰かが問題を解決しようと動くとそこに「ゴミを投げ入れるように」問題を捨てに来る人たちが出てくるようになるからだ。

一般の善意で作られた子供食堂に政治家が群がり、捨てられたペットを救済している人のところに新しいペットが捨てられる。これは村と村の境目にある誰のものでもない土地にゴミが捨てられるのと同じ感覚である。利権誘導以外の政治課題もネガティブな感情を匿名で捨てるゴミ捨て場になっている。

まともに問題を解決しようと思えば社会は与えられるものではなく、自ら作るものだという認識を持たなければならない。だが「社会という立派なものは誰かが与えてくれるはず」とか「世の中を変えてくれる興味関心というものはマスコミが作り出してくれるまで待つしかない」と考えているばかりでは、それはいつまでたっても実現しそうにない。限界は多分自分たちの気持ちの中似あるのではないだろうか。

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