自民党は何のために憲法が改正したいのか、憲法前文を見て考える

独自憲法をの制定は自民党の党是だという話がある。実際は吉田派がGHQと勝手に結んだ憲法をその当時戦犯指定されていた人が気に入らないという意味で、あまり中身とは関係のない議論だ。しかし改憲案はそれなりに整備されつつある。

ここで二つの憲法案の前文を観察する。前文をみれば彼らがどのような気分で憲法を作りたいのかが見えてくると思うからである。

この文章は改憲否定のポジションで書いている。つまり書いている人は自民党下での憲法改正には反対しているということだ。しかし、現在の護憲派はこの長々とした文章を読んで「つまらない」と思うはずである。憲法を改正したら安倍が戦争を始めるというような論調にもなっていないし、民主主義や立憲主義が否定されるという結論にもならないからだ。問題にするのは「我々」が何を意味しているかという国語の問題だ。イデオロギーなしに読めるが議論そのものはとても退屈だ。

手始めにアメリカ合衆国の憲法前文を見ておく。必ずしもこの通りにやらなければならないということはないのだが、参考にはなると思う。アメリカ憲法前文はとても短い。Wikisourceの訳文は次の通りで、憲法のオブジェクティブになっている。憲法は契約なので「何のための契約書なのか」(オブジェクティブ)を書くのが前文なのである。

We the People of the United States, in Order to form a more perfect Union, establish Justice, insure domestic Tranquility, provide for the common defence, promote the general Welfare, and secure the Blessings of Liberty to ourselves and our Posterity, do ordain and establish this Constitution for the United States of America.

われら合衆国の人民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫の上に自由のもたらす恵沢を確保する目的をもって、アメリカ合衆国のために、この憲法を制定する。

この前文は人々がイギリスの支配を否定している。当時のイギリスには厳しい階級差があり、宗教権威が世俗権威に結びついていた。こうした社会体制を逃れて人々が自らの国を作ろうとしたのが合衆国なのである。

なおこれからあげるつの原文は適宜改行されているが、改行は削除した。2012年案は句読点が多く却って読みにくい文章になっているが、それはそのまま残した。

中曽根氏案(2005年)

我ら日本国民は、アジアの東、太平洋の波洗う美しい北東アジアの島々に歴代相承け、天皇を国民統合の象徴として戴き、独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた。 我らは今や、長い歴史の上に、新しい国家の体制を整え、自主独立を維持し、人類共生の理想を実現する。 我が日本国は、国民が主権を有する民主主義国家であり、国政は国民の信頼に基づき国民の代表者が担当し、その成果は国民が享受する。 我らは自由・民主・人権・平和の尊重を基本に、国の体制を堅持する。 我らは国際社会において、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、その実現に貢献する。 我らは自由かつ公正で活力ある日本社会の発展と国民福祉の増進に努め、教育を重視するとともに、自然との共生を図り、地球環境の保全に力を尽くす。 また世界に調和と連帯をもたらす文化の重要性を認識し、自国の文化とともに世界文化の創成に積極的に寄与する。 我ら日本国民は、大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意義を想起しつつ、ここに新時代の日本国の根本規範として、我ら国民の名において、この憲法を制定する。

中曽根案は悪名高い民族ポエムから始まる。このポエム型前文は中華人民共和国(中国の憲法はとても長い前文を持っている)や韓国(こちらは「悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は」と控えめなものしかない)でも見られるそうである。だが、中国と韓国に見られる「あるもの」がない。

周縁部を統合してきた歴史がまるまる無視されているという点は極めて深刻だ。つまり沖縄やアイヌはこの民族国家の中でどう位置付けられるのかということが全く考えられていない。さらに統治・植民地支配(評価が別れるので併記しておく)の時に統合した朝鮮系(統治下では日本人だったが今でも北朝鮮籍も韓国国籍も取得しなかった人たちがいる)の扱いも不明確なままになっている。

中曽根康弘は今の「ネトウヨ保守」よりも日本の保守についてはまとまった知見を持っているはずだが、それでもこの程度の理解しかできない。戦前の日本観から脱することができなかったのだろう。

中曽根は多民族国家であるアメリカにも蔑視感情があり「知的水準発言」でアメリカ政府から反発されている。この文脈で単一民族発言も行っており、これがアイヌ系日本人に反発された。日本は明治維新のあと「日本人とは何者か」ということを考えないまま朝鮮や台湾を併合してしまったため周縁や少数者(朝鮮は人口が多かったので少数者ともいえないのだが)の扱いが極めて曖昧になっている。この曖昧さは現在にも受け継がれておりネトウヨの人たちは大和民族ではない日本人をなかったことにしたがる。彼らは実は日本をうまく扱えないのだ。

ポエムの要素の強い憲法草案だが、これはまだ日本語の文章としてはまともである。主語が「我々」でほぼ統一されているからだ。国について説明する部分のみ「我が日本国は」となっている。皮肉なことに、中曽根が日本民族=日本人=日本国民という比較的単純な日本感を持っていたために主語を揺らす必要がなかったのだ。

このポエムのような憲法前文は2012年案からは削除されている。すると実質的には何も残らない。アメリカのように建国の意義があるわけでもないし、権力者から統治権を奪取した歴史もない。つまり否定するべきものが表立っては言えないのである。自民党の憲法草案にはそうした不健全な後ろ暗さがある。

韓国や中華人民共和国の憲法には民族の伝統というような「ポエム型」の前文が見られる。その意味では日本の憲法には東洋回帰が見られるとも言える。だが、同時に中国や韓国は長い民族の歴史を前提にはしているが非継続国家であり建国の目的がある。また中国は漢民族=中国とはしておらず、各民族が中国共産党の指導の元で独立したという体裁が理論化されている。国と民族が比較的はっきりと定義されている。これが中曽根案にはなく、したがって2012年案にも見られない。

自民党憲法草案(2012年)

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴いただく国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

最初に目につくのは、句読点の乱用と主語の不統一だ。中曽根案では民族としての日本人が長い間国家を作ってきたということになっているが、新案では国が最初にあったということになっており、最後には国家を守ることが憲法の意味だと書かれている。これは国民主権と矛盾する。国民主権は国民一人ひとりが幸福なりWelfareなりを追求するためのものだが、目的がこっそりと書き換わっているのだ。さらに「話を尊ぶ」とか「家庭や社会が助け合う」というどうとでも取れる道徳が挟まれている。

二つ「日本国民は」と書かれたところがあるが、最初のものは国民に義務を課す条項になっている。相手の基本的人権を尊重し、和を尊び(今風の言い方をすると同調圧力に意義を唱えるなということだろう)国に頼らず家族と社会で助け合い、防衛に協力しろということを言っている。次のものは国体を維持するために憲法があるという規範になっている。

以前観察した教育勅語は天皇主権を理論的に正当化できなかったところから出発している。そこで、当時あった「わかりやすそうな」儒教的道徳観念と天皇主権を接ぎ木してできたものだった。どうとでも取れるうえに否定しにくい内容だったので、作戦失敗の責任を回避したかった軍部が若者を片道切符で敵兵に突撃させるための規範として利用された。自民党はそれをまとめた形で憲法に混ぜ込もうとしている。

いわゆる日本人の臣民化だが、天皇主権とは言えないので、全体をみるとよくわからない文章になっている。このブログでは国民主権の制限などと書くことがあるのだが、実際に行われているのは意味の無効化である。「本当は国民主権とは言いたくない」という自民党の気分が透けて見える。

このように思想的に股裂きになっているので、「我々」に至ってはそれがいったい何なのかがさっぱりわからない。これを政府と取れば政府が義務を負うことになるし、国民はとすると国民が勝手にやってくれということになる。多分書いた人にもわかっていないのではないだろうか。

中曽根案では我が日本国民(実態は少数者や移民が排除されているのだが)が省略され我々になっているという構造はわかる。だが、新案ではそれが主権を持った日本国民を意味するのか、国体があってそのサブジェクトである日本臣民があるのか、それとも民族体の日本民族であるのかが決められない。書いた人がよくわからずに書いたか、わかっていてごまかして書いたのかすらわからない。

憲法前文なので、平和主義や国民主権などいろいろなことを指摘したくなるのだが、誰のために書かれた憲法なのかということが決められないのが一番の問題だろう。この背景がどこにあるのかはわからないが、政権が否定されて下野したことと、国民から非国民のように非難されていた時代に今のネトウヨの前進になった国家神道信奉者が自民党を支えたことが影響しているのではないかと思われる。

文章を歪めて国体主義を埋めこもうとした結果、国体主権は天皇も超えてしまっている。つまり、個人としての天皇も国体に従うべきで、その国体をよく知っているのは一部の人たちなのだという気持ちがあるのだろう。先日辞任した靖国神社の宮司の天皇否定発言を見てもその気持ちがよくわかる。

このメンタリティは戦前の軍部が統帥権の名の下に暴走したのとよく似ている。現在の自民党は統計を書き換えたり、政府文書を改竄したり隠したりしている。つまり、2012年の被害妄想的なメンタリティは未だに温存されているということになる。