安倍政権はどうやって国の活力を奪うのか – 出し惜しみ説序論

今回は社会主義的出し惜しみ理論というものを提唱したい。手始めに取り上げるのは自民党憲法草案と今回の海外労働者の受け入れである。共通点はないようだが根幹にあるマインドセットが似ている。

前回は2012年の自民党憲法草案を見た。これは過去の国民主権を継続しているように見えながら、実際には国体が先にあり、国民がその構成物という役割を割り当てられていることがわかった。国民は国体を継続させるための添え物であり、何かあった時には率先して国体を守るべきだと考えられてる。政治家が動員できる便利なリソースが国民なのである。

なぜ隠れた主語画政治家なのだろうか。それは君主であるところの天皇に権力を戻すべきだとはなってはいないからだ。天皇には元首という役割が与えられているものの、天皇の権能について定めらているわけでもなく、天皇から下賜されたという形式もとらない。

政治家はうっすらと、国民主権からも天皇の監督からも解放され独自の権限を持つことができるようになる社会を夢想している。つまり、戦前の軍隊のような存在になれるということである。政治家が国民から選挙されて選ばれるという点は変わらないので権威は国民に由来するはずなのだが、その権限は「公」によって制限され、その「公」は実際には国会議員と官僚からなるという込み入った回路のようなわかりにくい統治機構が想定されている。

現行憲法はアメリカの憲法を「コピペした」とされているそうで、この複雑な回路の問題はない。アメリカ憲法は「アメリカの人たちは自由な国に住みたいからアメリカ合衆国を作りましたよ」と言っているし、「日本国民は平和を望む人たちと仲良くやって行きたいから日本の憲法を作って日本という国を構成することにしましたよ」と言っている。こうすることによって国民を団結させ、理想とする社会の建設を促しているわけである。つまり、権威や権限というのは実は活力とつながっているという隠れた配線がある。

いずれにせよ、自民党が考える世界では、日本という入れ物があり、そこに入れるものとして日本国民がある(「いる」ではない)と考える。さらに政治家は国民はわがままだから制御ができないと思っている。(片山さつきの天賦人権否定発言)では、その日本を支えるもの(人ではなく「もの」である)が減ったらどうするのだろうかという問題が出てくる。

支え手がいなくなるのだから国から活力が奪われる。というより、活力が奪われているから国民が減っているのだとも考えられる。本来なら国民を動かして「自分たちのよりよい社会を守るために頑張ろう」と「みんな」が考えるというのが国の姿である。ところが国民を理不尽でわがままだと思っている政治家は誰の心も動かせない。

不況が定着しており団塊の世代が働いていた時にはまだ少子化の問題は喫緊の課題としては捉えられていなかったようだ。このころには女に無理して子供を産ませればいいんじゃないという政治家がいた。女性を「産む機械」と定義して「一人一人に頑張ってもらうしかない」と言っていた。(柳沢伯夫の産む機械発言・2007年)批判が多かった発言だが、自民党の議員にとっての人間は「もの」なので彼らにはそれほど違和感のある発言ではなかったのだろう。

ところがこの後も出生率は改善しなかった。そのうちに団塊の世代が退職しはじめ、景気も上がり始めたことから、低賃金の働き手が足りないという事態に陥っている。ここから「働き手」という機械が足りないなら外国から連れて来ればいいじゃないかという発想につながっている。貧乏なら自分たちのいうことを聞いて働いてくれるだろうということだ。これは奴隷使いの発想だが政治家は多分そうは思っていないはずだ。彼らは政治家には国民を隷属物として使役できる正当な権利があると考えているからこそ、自民党の憲法草案が書けるからである。

野党は一応反対しているが、5年間の不足の見込みを出せと言っている。これは中国やソ連がかつてやっていた産業計画の発想だ。

すると不思議なことに本当に見込が出てきてしまう。給料が改善すれば人手不足は解消するだろうし、景気が上向いたり下向いたりすれば製造業の見込も変化するだろう。しかし野党も5年の見込をだせといい、政府も数字(5年後は安倍政権ではない)が出てしまうのである。彼らは国を統計と捉え、そこにいる人たちを操作可能な何かだと考え、それがコントロール可能だし、できるべきだと考えている。そして思い通りに動かなければ統計を操作する。ついには日銀が独自に統計が出したいからソースを寄越せと要求するまでになっている。(日経新聞

ここで海外移民を入れるということを考えてみたい。一旦国体というちょっと受け入れがたい概念を受け入れてみよう。これを動かすためには低賃金の働き手が必要だがそれが調達できない。だから海外から人を調達してくるわけである。

すると日本人が明治維新以来悩んできた問題に再度直面することになる。戦前のそれは日本人を日本列島に古来から住んでいた人たちに限定するのか、それとも天皇の統治のもとにいる人たち(朝鮮や台湾人を含む)に広げるのかという問題だ。国民も装置なので海外労働者も装置だ。では日本人というのはこの装置のどの部分を指すのかという問いに答えられる政治家がいるだろうか。

戦前の日本人はこの問いに答えられなかった。列強との競争のためになし崩し的に領土を編入したがそこには生きている人がいた。それを植民地の支配民として受け入れるのか同胞として捉えるのかが決められなかった。

今度はこれを日本列島の中でやろうとしているのだから、戦前と同じ問題が起きるだろう。コントロールできないものをコントロールできると錯誤しており、その上に別の変数を加えようとしている。社会は確実に混乱するだろう。

この誰が国民で、誰が社会を支えるのかという問題が曖昧だったとして「何がすぐに困るのか」という人が多いのではないかと思う。さもなければこのような恐ろしい議論は続けられないと思う。

では、国民はどう対処するだろうかというのが次の問題になる。例えば女性はまず子供を生むことがキャリアに邪魔になると考える。さらに最近では落選前提に保育園に申し込む女性もいるそうだ。保育希望があったが叶えられないという実績があれば職場復帰が遅らせられるのだそうである。このように制度を作って市場を歪めれば歪めようとするほど(政治家から見れば制度を作って状況をコントロールしようとすればするほど)国民は「制度ができたらその枠内で一番得になるように行動しよう」と考えるようになる。

「公」を持ち出して状況をコントロールしようとしてもその通りには動かない。部分最適化が起きて、活力が奪われる「出し惜しみ」が起こるのである。実は与党も野党もそれぞれ思惑は違うのだろうが、同じ間違いの協力者になっているということになる。

「公」を持ち出して状況をコントロールしようとしてもその通りには動かない。部分最適化が起きて、活力が奪われる「出し惜しみ」が起こるのである。実は与党も野党もそれぞれ思惑は違うのだろうが、同じ間違いの協力者になっているということになる。