「日本人が英語を話せないのはなぜか」問題

Quoraによく日本人が英語を話せないのはなぜかという質問が出る。あまりにも繰り返し出てくるので、逆に「なぜ日本人は日本人が英語を話せない問題」にそれほどまでに関心があるのだろうかと思い始めた。




TOEFLなどの英語テストのランキングをみると、確かに日本の成績はあまり良くない。先進国と比べると「欧米とは言語体系が違っているから仕方がない」という理由付けができるのだが、アジアの各国にも負けている。

ところがテストができない理由も明確だ。そもそも、日本人はそれほど英語を必要としていない。英語が必要な理由は二つある。学問とビジネスだ。例えば、現地の言語に学術用語が充実していない国があり、そうした国では最初から英語で高等教育を行った方が良い場合がある。ラテン語経由の学術用語を豊富に使えるからである。日本はすでに漢字を輸入しており学術用語の造語にはそれほど困らなかった。

もう一つの理由はビジネスである。国内のマーケットが狭い国は海外へ出て行く必要がある。この場合英語か中国語が必要だ。中国語は中国では圧倒的な人々に話されているものの、第二言語話者は英語の方が圧倒的に多い。つまり英語ができればビジネスに有利だ。さらに、外貨が少なく海外からの投資が必要な国も英語が必要になる。国内に一億人以上の人口を抱えるマーケットがあり、外貨も十分にある日本にはこの必要がない。

この二つの理由により切実に英語を話したいという人が少ないのだと考えられる。だから別に英語などやらなくても良いのである。

するとますます日本人は英語が必要だと思い込んでいるのかという疑問が湧く。ところがこれがわからない。試しに「あなたは何があれば英語が話せるようになると思いますか」と聞くと答えが戻ってこない。この質問には日本語が堪能で英語もできるイタリア人らしき名前の人が返答してきただけだった。多分どうして英語が話したいのですかと聞いても答えは帰ってこないだろう。

最初は「英語ができない自分を恥じているのだな」などと思っていたのだが、そうではないかもしれないと思い始めた。個人としては英語は必要ないが、他人には英語をやらせたい人が多いのではないかと思ったのである。

おそらく、個人としての日本人は具体的な英語学習に対するイメージを持っていないし、自分の子供に英語をやらせたいとも思っていないのだろう。例えば日本人にメジャーリーガーが少ないのはなぜかと思う人が、別に自分が野球をやりたいわけでもないというのと同じ程度の疑問なのかもしれない。

だから、個人としての日本人は何の努力もしない。なんとなく学校の勉強には不信感を持っていて、学校が変わればみんな英語ができるようになるんじゃないかと思っている可能性はある。

以前に自己責任について見たときに、日本には「結果としての責任」という特殊な概念があり、相手を助けてやらないという冷酷な宣言の代わりに「自己責任」という言葉を使うことを観察した。この対極としてスポーツなどで優勝した人がハーフや米国籍取得者であっても「日本人として誇らしい」などというようなことがある。つまり、日本人は、何か利得があると考えたときには「我々」の範囲を広くとって成果を横取りしたがり、持ち出しがあるときには「我々」の範囲を狭くして扉を閉める傾向があることがわかる。加えて、社会一般と自分の間には明確な区別があり、自分のことを語る場合と社会全般のことを語る場合には意見が変わるのだろう。

だから、日本人には「英語」に対する一貫した意見がない。英語がどのような文脈で語られるかで意見が変わるのからである。ただ、すでに英語が話せる人だけが「日常会話程度の英語ならすぐに覚えられるのだから」といってあれこれ教え他がるのだが、そもそも英語を必要としない日本人にはどうでもいい知識なのだろう。

ここから類推すると「日本人が英語ができない」という疑問の意味がちょっと見えてくる。つまり「私」として英語ができるような努力はしたくないけれども、学校でよりよいカリキュラムができて全体が底上げできるのであれば「なんとなく誇らしい」と考えるだろう人が多いのだろう。だから「あなたは何が解決すれば英語ができるようになりますか」という主語をあなたにおいた質問には最初から意味がないのだ。

こうした「日本」で顕著なのが軍隊の必要性だろう。なんとなく西洋には劣等感を感じていて、軍隊さえ持てば尊敬されるのではと考えている人が多そうだが、具体的に聞いてみると実に曖昧なイメージしか持っていない人が多い。

軍隊を持つようになればなんらかの形で国民が負担を強いられる上に兵隊を出さなければならない。それを他人に押し付けられる自信のあるかあまり考えたことがない人は軍隊を持ちだがり、いつも何かを押し付けられていると不満を感じている人はことさら軍隊を拒否するのだろう。軍隊を持ったからといって個々の日本人が「日本は軍隊を持っていてすごいねえ」と言ってもらえることはないのだが、そもそも具体的なイメージがないのでそこまでは考えない。前回見た米子市長はこうした「具体的なことを考えない」人の典型例なのかもしれない。

よく、日本人は集団主義的だと言われることがある。確かに同調圧力が強く、自分の意見を言いたがらないし自分で考えないなどという集団主義風な傾向が見られる。しかしこの伸び縮み可能なアイデンティティというのは一般に言われている集団主義的感情とはどこか違っているように思える。一般的な集団主義の社会は厳格な秩序と決まりがあり個人の見解で勝手に伸ばしたり縮めたりすることはできない。そもそもこれを便利に使える時点で集団主義ではないのだ。

ただ、これを個々の日本人にぶつけても、決して認めようとはしないと思う。ただ、英語が話せないくらいだと「それはそれでいいのではないか」と思える。問題になるのは軍隊の問題のように「みんな何もしない前提では色々言いたがるが、実際に自分では努力も負担もしないというようなケースだ。

誰かに押し付ける前提で勇ましく行動しても、結局は全部自分たちに降りかかってくるというのが第二次世界大戦の結果だった。韓国や中国からは未だに恨まれており、場合によっては何倍にも誇張されて伝わるケースもある。韓国政府からは繰り返す問題を蒸し返され「ここをつつけば金がむしり取れるだろう」と思われているようだ。これも我々の祖先が後先考えずに大陸で威張り散らした結果なのである。我々は今これを国内でやろうとしている。使い倒しても構わないと侮っているアジアの人たちを大量に国内に招き入れており、これを固定化しようとしているが、将来彼らが怒りを日本社会にぶつけてくる可能性には全く気がついていないし、考えようとすらしない。日本人の非正規労働者は勝手に自己責任を感じて潰れてくれるかもしれないが、送り出し国の政府が騒ぎだしたらそんなことは言っていられなくなるだろう。

集団主義は集団の中での序列をはっきりさせることで結束を強め実力主義が持っている混乱を防ぐというような目的がある。一方、日本型の「集団主義」は他人の権威を笠にきて状況を悪化させいざとなったら誰も何もしたがらない可能性があり、却って集団を弱くしてしまうのではないかと思える。