野党が再び支持を得るためには行動科学的な政策の練り直しが必要だ

今回は嘘で膠着した安倍政権を止めるためには行動科学に基づいた政策の練り直しが必要であるということを書く。ずいぶん大げさな目標だが、実際に言っていることはそれほど難しくない。今の政治状況は難しくてよくわからないので整理した方がいいのではないかということを書くだけである。


Twitterを見ていると「安倍政権は誠にけしからん」という書き込みをよく目にする。あれもこれもけしからんことばかりなのだが、マスコミが取り上げてくれないせいでそれがいつまでたっても解決しないと嘆く人が多い。Quoraでも最近両陣営の進出がある。全て安倍せいだという人もいれば、逆にネトウヨ的な思想を展開する人もいる。しかし、問題は一向に解決しない。さらに悪いことに一般の人たちの政治への関心は昨今薄れつつあるようだ。

少なくともワイドショーのレベルを見ていると政治の話題が消えつつあるように思う。いつまでも解決しない上に新しい問題も溜まって行くので「解決する」爽快感が得られないのだろう。視聴者はワイドショーに正義の実現を求めているわけではない。見ているだけで問題が解決したという爽快感が得たいのである。その意味では二時間ものの推理ドラマとワイドショーの間には境目はない。

一方でフランスや韓国のようにデモによる民主主義にはあまり共感がないようだ。困ったことだなとは思うのだが、これは一朝一夕で変えられそうにない。

Quoraでは人々が上から目線で語れる話題が好まれる傾向があるようだ。自分が出した質問のページビューがわかる機能があるのだが、ここ一週間でのヒットは秋篠宮発言問題だった。逆に自分たちに関係がある話題は好まれない。人々は自分のことはできるだけ語りたくないようだ。しかし、実はこの傾向はこのブログのページビューの傾向とも一致する。ここからも人々が政治課題の解決のために政治について知りたがっているわけではないことがわかる。

政治課題から人々の関心が薄れているのは何が正解なのはわからなくなっているからだろう。Quoraだと正義が語れないと自分が見識があり正解を知っているということが喧伝できない。ワイドショーだと正解の側に立って間違いを犯した人を叩けない。人々は解決策を求めて政治的話題を話し合うわけではない。自分が正解の側にいることを確認しそれを人にひけらかすために政治的課題を語る。これが生活と政治が密着していると考えてデモを行う国との違いである。よく日本は臣民型だといわれているのだが、臣民というより観客に近いのかもしれない。

有権者が正解を見失っているのは、政治家の側が正解を提示できなくなっているからだろう。例えば消費税の問題では手探りが続いている。

消費税が上がるごとに車離れが起こっているようで、それを防ぐために自動車の税金を下げようという計画が出ているそうだ。しかし、自動車税は地方の一般財源になっているので地方が怒り出す可能性がある。結局どうしたいのかがわからずに世間の反応を見ながらの提案が続くので、結果的には何をやっているのかわからなくなってしまう。有権者は政治家が正解を提示することを求め、政治家は有権者が答えを教えてくれることを期待している。しかし、どちらにもアイディアはないので「商品券を配ればいいんじゃない」というような話に落ち着いてしまう。

この問題の解決策を探すにあたって、例によって全く違う側面をあたってみることにした。それが部屋の片付けである。部屋の片付けと政治課題には全く関係がないように思えるのだが、実は「選択」という共通点がある。これが今回の「行動科学」である。科学的知見ではあるが特に難しいことは言っていない。

しばらく前にアイエンガーという人の選択の科学という本が話題になったことがある。ジャムの種類が多いと人は選択ができなくなり購買をやめてしまうという話だった。選択は脳に負担をかける。選択肢が多いことは良いことのように思えるのだが、実際には選択を強いることで生産性を下げている。極端な場合「着る服」を1セットにしておけば洋服選びに迷うことがなくなりその分の時間をもっと生産的な活動に生かすことができるようになる。すると洋服に苦手意識がなくなるのだ。

アイエンガーのジャムの法則でで知られるように、選択肢が多いことはストレスを生むのだから、政治課題を提示する側もできるだけシンプルな政策を提示すべきなのだ。

だが、ジャムの法則が有効なのは「消費者がジャムについてよく知らない」という条件があるときだけなのだそうだ。つまり、車が好きな人は車に多くのオプションや選択肢があっても悩まないのだという。つまり、できるだけ有権者が熟知している話題について単純な政策をまとめればいいということになる。ただし「保育園を増やしましょう」というのではダメで、それが網羅的に多くの領域をカバーできる必要がある。スポットの課題解決だけだと結局総花的な寄せ集めになってしまうからだ。

我々が政治に興味を無くしつつあるのは、その選択の結果が意味を持たないからである。つまり「総花」が問題なのだ。政策は単なる経緯の塊なのでプロセスを知らないとなぜこのような形になっているかが理解できない。そこに新しい問題が積み上がると選択が苦痛になってしまうという具合だ。そしてこのストレスが政治からの離反を招くのだ。

つまり、政治に興味を持たせるにはあるイデオロギーを持ち出して、新しく政策のセットを作り直した方が楽だということになる。特に支持が伸び悩んでいる野党はこの政策をとるべきだ。自民党の政策には相対的な意味はない。単に様々な支援団体の望みを叶えつつ現実に妥協しているだけだからである。ゆえに、その対抗策として対案を出すとそれも意味をなさないものになる。存在意義を示し続けるためには対抗しておいた方が良いのだろうが、裏では最初から政策を作り直すべきである。支持者が熟知した生活実感に基づいてシンプルな政策集を作れば「これはわかる」という爽快感が得られる。政治として社会はこうあるべきだという正義は通用しない。わかりやすさが大切なのだが、それを作るにはちょっとしたコツがあるのだと思う。

もちろん、国会対策にばかり注目する野党がこの提案を聞き入れるとは思えない。少なくともこのブログの意見などは届かないだろう。有権者もいろいろな政治課題にいちいち腹をたてるのではなく、自分が一番大切にしている政治課題をいくつか決めて、その是非だけを考えつつそれを野党に訴えて行くべきなのかもしれない。こうすることによってしか物事の単純化はできないだろう。

しかし、おそらく全ての有権者が同じように視野を広げる必要はない。草の根的なリーダーが周りに影響を与えて行けば膠着した状況から脱出することも意外と難しくないのかもしれないのではないだろうか。