入管法改正は確実に将来の暴動につながる

今回は入管法の改正は地方の安全を損ねるということを書く。これは構造的なものであり誰かの努力で解決することはできない。そして全ての議論をサボタージュした自民党はこれに責任を取らないだろう。

以前、保育園の問題について「外部化」という観点から書いたことがある。多分、概念としては全く理解されていないと思うのだが、入管法も同じ要点で改定されたのだなと思った。平たい言葉でいうと企業は厄介ごとを外に押し付けて支出を減らそうとしているのだ。

本来、日本では企業が子育てに責任を持っていた。具体的には正社員にそれなりの給料を支払うことで一家を支えていたのである。だから日本には保育園がそれほど必要なかったし、家庭は子弟を大学にやることができていた。正社員制度が崩壊すると妻も働く必要が出てきた。すると子育てに人が足りなくなる。そこで保育園ができるのだが、保育士はお金を出して雇う必要がある。企業はその支出をしてくれないし、公共の供給は常に不足する(これは以前ソ連の例をご紹介した)ので保育園が恒常的に足りなくなってしまったのだ。

もともと外部化という用語は公害などの説明するために使われる外部性という概念から取っている。(外部不経済

企業は営利目的のために環境を汚す。すると誰かが空気をきれいにするためにお金をださなければならなくなる。こうした条件では環境汚染を防ぐために措置をすると経済競争に不利になる。なぜならば公害を予防するのに煙突に装置をつけるとお金がかかり、それを製品やサービスに上乗せする必要があるからだ。だから公害は見て見ぬ振りをしたほうがトクだということになるのだ。

コトバンクにあるブリタニカの説明は「できれば外部不経済を市場価格に基づいて内部経済化することが課題とされている。」と結ばれているが、国が企業に環境を守るための設備の導入を義務化したり、税金をとって環境保護を推進するなどして「一律に」企業活動に介入するという方向性もある。外部性と公共の問題は経済学の大きなテーマの一つになっており、いくつも知見がでている。つまり、童話がことにするのかが重要なのだ。

日本企業はこれに逆行する動きとして自民党がそれを容認している。彼らは公共という概念を「不都合を押し付ける他人」として見ている。自民党はこれに「みんなの欲求のために個人は我慢しなければならない」という時の「みんな」という概念を付け加えている。私物化の大義名分として公共を利用しつつ実は公共にまったく関心がないというのが自民党の危険性である。

保育園の問題では「子育ての面倒は見ないけど従業員は欲しいのであとはよろしく」と子育ての支出を国に移転させた。短期的にはフリーライドしたほうが生き残り安くなるのだが、実際には足元の消費市場が縮小し、労働力も足りなくなり、企業も同時に不利益を被ることになる。

では外国人労働者の場合何を国に押し付けているのだろうか。それは在留ステータスの管理だ。

日本人は戸籍と住民票によって政府から把握されている。と同時に民主主義を通じて国や地方の政治にコミットしている。民主主義は国民の側からみると権利だが、同時に国民をコミットメントでしばりつける鎖の役割も持っている。民主主義という絆(もともと動物をつなぎとめるためのヒモのことをいう)を結んでいるのである。

ところが経済界はこうした絆つきの労働者ではなく雇用の調整弁として「かんばん方式」で調達できる労働者を求めていた。そのためには法に保護されない法の枠外の労働者が必要になる。国も福祉予算が拡大するのを防ぎたいので法の枠外の労働者は好ましいと考える。在留時の税金と社会保障関連の支出だけさせて、後の支払いはしないで済ますことができるからである。これはどちらもフリーライドの発想である。つまり、福利厚生や労働法規の問題をできるだけ無視しようとしている。ところが、同時にこれは日本の法律にコミットする必要がなく潜在的に不満を抱えた人たちを大量に生み出し、社会に送り出すことになる。

企業は問題が起きた時に労働者を管理しないだろうし、雇い止めして関係がなくなってしまえば帰国までの手続きにも興味をしめさないだろう。あとは国がやってくれということになる。だが、国も十分な措置は取らない。

技能実習制度では研修受け入れ先が実習生の労働条件を保護することが前提になっていた。だから、国は許可を出したらそのあとの保護を「研修先」に丸投げすることができていた。実際には研修先では研修生の権利を保護しておらず、なおかつ国は労働者としても保護してこなかったが、それでも形式としては「研修生は研修先と紐付いている」ので、実態を補足することが可能な建前の制度になっている。今回はそれもなくなるということだ。

もちろん、安倍政権は答えを準備している。それが入国在留管理庁だ。

現在256万人の「管理対象」の外国人がいるそうだ。国としては入国在留管理庁を作って機能強化するといっている。(朝日新聞)320人を増員すると言っているのだが、増えた結果5,000人規模になるという。つまり、今でも4,000人以上の職員がいたがほとんど状況が把握できていなかったことになる。320人というのは雀の涙だろう。

ではなぜそのようなことが起こるのか。企業は雇い入れた外国人の管理を放棄した。それを社会主義的に国が行うことになる。しかし公共の支出は出し惜しみされるので常に足りなくなる。多分、国の不足を補うのは地方自治体になるはずである。

横浜市の人口は372万人だそうだ。職員の数は30,000人に満たない程度なのだそうだ。数千人ではなく数万人くらいいなければ市の管理はできない。入国在留管理庁は全国に散らばった256万人を5000人で管理することになるので、おそらく慢性的な人手不足になるはずである。本来、雇い入れた企業の人事担当者の総数くらいの人数は必要なはずだ。国全体が一つの派遣業者になるが、許可を与えるだけでその後の管理はまったくしないというとわかりやすいかもしれない。

外国人労働者が増えれば横のつながりができる。待遇に不満があれば同胞が連帯することになる。政府や企業に対して従順な人たちもいるだろうが、そうでない国の出身者もいる。つねに権利を打ち出してゆかなければ生き抜いて行けないという社会からも多くの人が入ってくるのである。

前回、櫻井よしこの被害妄想的な懸念をご紹介した。中国人は潜在的な中共のスパイになっているという分析だった。今回の文章の結論は櫻井と同じになるのだが、途中経過が違っている。全てを保守歴史観で塗り替えることに慣れてしまった怠惰な人たちには「民主主義のくびき」とか「外部不経済」というような概念が理解できない。だから途中経過がきちんと説明できないのである。

権利意識の強く、民主主義によって自らの意思を反映するという概念がない中華人民共和国出身の中国人は政府のためではなく自分たちの待遇のために同胞同士で連帯する可能性が高い。民主的に保護されているという概念の薄い彼らは、彼らが他地域でやっているように出身地別に自前の保護ネットワークを構築するはずである。顕在化すればチャイナタウンになるが、バーチャルなチャイナタウンもありうる。

それでも中国系の永住者は「日本で生きて行かなければならない」からそれなりに現地の法律を遵守するだろう。つまり選挙権はなかったとしてもそれなりに民主主義国家について理解した上で生活してゆくはずだし、できれば地方参政権を与えてコミットメントを深めたほうが良い。ところが、テンポラリステータスの場合そのインセンティブもない。

在日外国人が孤立しているときにはまだ少数者として萎縮するだろうが、数が増え、コミュニティが生まれ、日本人への不信感が高まった時に、何が起こるかは誰にもわからない。選挙によって意思表明をする代わりに決まったことに従おうという意識がない人たちは、ある意味「民主主義社会の人たち」よりも自由なのである。つまり、なんでもありなのだ。そして、その時に国は十分に対応しないだろうから、結果的な責任は地方自治体と地域住民に押し付けられる。

公害の場合、企業は汚い煙を地域に押し付けた。高度経済成長時代に我々は公害をどう管理するのかということでずいぶん試行錯誤してきた。今回起きていることは次世代(つまり子どもたち)と地域の安全という二つの投資を企業が放棄しているという問題だ。自民党が放置されるということは、平成の次の時代はこうした問題と我々が直接戦うことになるということを意味している。社会が問題を認識し、それに対応した政権ができるまでこれは続くだろう。