どうしても勝ちたい日本人

先日、心ない言葉をぶつけられたらどうしたらいいのかについて書いた。が、満足しなかった人が多かったのではと心配している。滞留時間が短かったからだ。この理由を考えていて「新しい戦争状態」というアイディアが生まれて頭から離れなくなった。権力は人々を戦わせることで矛盾を隠蔽し支持を集めることができるという狂った社会である。




提案したのは「切断処理」だった。つまり、言葉そのものには意味がないので対応しても仕方がないから切断してしまいましょうということだ。これが気に入らない人が多いのでは?と思うのだ。

最近勝ちたい人が増えたと思う。だから、心ない言葉を投げつけられた時の解決策として求めらるのは「自分が正しいこと」を周囲に認めさせるにはどうしたらいいのではないかということではないかと思うのだ。そういう人は「争うな」という主張を読むと途中で読むのをやめてしまうのかもしれないなと感じるのだが、実際に感想文が返ってくるわけではないので本当のところはわからない。

科学的であるというような大きな話が好きな人も多いから、実際に読まれるものを書こうとするとそれは「心理学で相手を操作する」というようなものになるのではないかと思う。つまり、科学という立証された正解を相手より早く知ることで優位に競争に勝てるというようなものを書けばある程度読まれるようになるのではないかと思うのである。実際にネットにはそういう記事がたくさん出ている。

この「正義や正解の側に立って勝ちたい」という傾向を直接一人ひとりからうかがい知ることはできない。だが、毎日ブログやQUORAでなんらかの文章を書いていると嫌という程思い知らされることがある。

  • 自分には直接関係がない大きな問題について
  • 高いところから
  • 大きな正解(科学実験など)を使って論評する

ようなものが好まれる傾向がとても強いのだ。最初はブログしかやっていなかったので個人的な傾向なのだろうかなどと思っていたのだが、QUORAの質問のページビューにも同じような傾向がある。科学と言っても仮説の集まりなのだから間違っているケースも多いはずだ。だから書いておきながら「あたかも正解みたいな文章を書く」と騙される人は多いだろうなあなどと思ってしまう。

最初は「政治問題について書くとウケる」程度の認識しかなかった。しかし、政治によって問題解決をすることに関心が高いわけでもなさそうだ。いわゆる保守と呼ばれる人たちが大きいものを求める気持ちはわかるのだが、リベラルで人権派のはずの反安倍系の人たちにも強烈な勝ちたいという欲求が見て取れるところから割と日本人で政治議論に参加する人にはそういう人が多いように思える。いずれにせよ、草の根で地域の身近な問題を解決しようというような提案が読まれることはない。

日本人は表立って政治について語りたがらないが、ページビューだけを見ているとずいぶん熱心に政治について読みたがっている人が多いという感想を雨を持つ。正義の側に立って他人を断罪したがっていると仮定するといろいろなことがすんなり理解できる。

例えば安倍政権を叩く人には年配者が多い。大学などで民主主義を正義だと習ったような人たちである。ところが若年層には安倍政権を応援する人が多いのだという。これが現在の権力だからなんだろう。

例えば最近憲法改正議論について質問したり、他の人の回答を見ていると「日本が再び軍隊を持てば中国に攻撃できるようになる」と思い込んでいる人が意外と多いことに気がつく。一応国連憲章で武力による国際紛争の解決はできませんよなどと書いてみるのだが反応はない。多分、日本人の村の論理からすると「建前はそうだが、みんなうまくやっているに違いない」と思っているのではないかと感じる。全部の人がこういう見込みを持っているわけではないのだろうが、随分と蔓延しているなとは思う。これを「右傾化」と一括りにすると間違った印象を残しかねない。別に軍国主義化しているわけではなく素直な感覚として「喧嘩を自制しているからナメられるのでは?」というような感想を持っている人が多いのではないかと思うのだ。

例によって、なぜ人は勝ちたがるのかを考えてみたのだが、それがさっぱりわからなかった。人々が仮想的な勝てる感覚を好むことまでは理解ができる。例えば、野球はやはり巨人などの強いチームを応援したい人が多いのだろうし、金メダルを取れる競技には人気が集まる。もちろんこれは日本だけの特徴ではない。

しかし、日本人の場合、人間関係や政治などにも勝ち負けの感覚持ち込まれているように思える。議論で問題解決をしたい人はそれほど多くなさそうだが、なぜか議論で勝ちたいと思っている人はたくさんいる印象がある。なぜ、普段はとてもおとなしく自分の意見さえ言えないような人たちがインターネットで半匿名化すると人格が変わってしまい、実名でも勇ましい意見を述べるようになるのだろうか。これもよくわからない。

こうした光景を日常で見られる現場がある。それが女性や高齢者の運転である。道を渡る時によく注意していないと車や自転車が飛び出してくることがある。たいてい女性か高齢者である。普段はおとなしくすることを強いられている人ほど「歩行者に勝てる」と思うと飛び出してくるように思える。こちらを確認しているかを見るために運転手の目を見るのだが「目が座っているように見える人」が意外と多い。逆に男性だと断固として先に行くようにと主張する人もいる。彼らは「社会を支配している」側にいる人たちである。だから対面を保つために余裕を示そうとするのだろう。

つまり社会としてフォロワーシップを求められる人ほど「コクピット」に座った時に乱暴な態度に出るということがいえる。逆にリーダーシップを求められることが多い人は体面を保とうとするのだ。人の良し悪しではなく「組織運営の経験」が対応を分けているのではと思う。

最初は、政治の問題を解決したり人間関係の悩みを超克するためにはどうすればいいのだろうということを考えようと思っていたのだが、考察を進めると「ああ、それどころではないな」と思えてしまう。フォロワーシップを強制された人が多く、社会全体として問題解決をするのではなく、自分が優位に立てることに熱心になってしまうわけである。

日本人は個人の欲求を表に出さずに集団に従うようにという教育が行われる。男性の一部は社会に出ると今度は指導的立場を「押し付けられる」ので、あまり社会に対して居丈高な対応をすることはなくなる。だから、「従うべき立場を強制されたまま」の人が個人のプライバシーが守られた安全なコクピットに座った時に自我の歯止めを失うのはむしろ当たり前のことなのかもしれない。

前回は対人関係の不安定さから人々を操作したがる人について書いた。しかし、それが社会化すると今度は「相手より優位に立った方がトクをする社会」ができあがる。それは一種の合理性を持った社会規範なので人々は合理的な理由でこの戦いに参加して勝ち残らなければならなくなってしまう。

これが政治に持ち込まれると、人々は現実的な問題解決には向かわず、正義の側に立って自我を膨張させて行くことになるだろう。具体的に言えば搾取を前提とした社会でどうにかして搾取する側に登ろうという試みが横行するようになるのだ。すると権力は正義の旗を振りかざして弱い人たちを叩くようになる。だから、政権が暴走させるのに緊急事態条項はいらない。ただ、普通の人たちの自我を膨らませて戦いに送り出せば良いのである。