ローラの政治的発言と個人主義

Quoraでまた面白い視点を発見した。ローラが政治的発言をすることの是非を聞いたところ、個人の発言をとやかくいうべきではないと叱られたのである。日本における個人主義の理解としては極めて真っ当だと思った。




これまでローラはこの問題について<正しく>理解はしておらず、西洋的な外面にしたがって政治問題に参加したのだと分析してきた。西洋的な外面とは「セレブは環境問題や人権問題について積極的に発言すべきだ」という価値体系である。実際に彼女が出演しているTBCのコマーシャルは環境問題とリンクしているので一定のマーケティング的な価値があるものと思われる。最近はインスタを経由してこうした価値体系が直接日本に入ってくる。ただこれは環境問題についての発言であって、基地の移設が国防にどう関与するかというような話ではない。最近ではBTSが人権問題で演説したことからもわかるように、アメリカを中心とした文化ではこれがトレンドなのだ。

これが日本で摩擦を起こすのは西洋の民主主義の価値観と我々の村社会の価値観が全く異なっているからである。

アメリカのセレブが環境問題で積極的に発言するのは、彼らの発言に社会的な意味があるとされているからである。もともとキリスト教文化圏には献金文化がある。社会的に成功している人はそれに応じて社会にそれを還元しなければならないという考えたかたである。なので「政治的発言」と言ってもそれは人権擁護とか環境問題のようにあまり個人の利害に関わらないものになる。そして、それは必ずしも個人の見解ではなく社会的に意味があるものとされる。社会はセレブが政治的な発言をすることを積極的に期待するのである。デモが政治的発言として社会に組み込まれているのと同じようにセレブの情報発信も社会に組み込まれている。

ところが村落性が強い日本では個人の考えが政治に生かされることはない。村落性が強い社会というのは、個人の意見が顧みられず政治的な意思は集団の利害を調整した上で集約されるという世界である。通貨になっているのはイデオロギー(個人の理想)ではなく村の利益なのである。

このため村と個人の利害関係が一致しなくなるとそれを窮屈に感じる人が出てくる。そういう人たちは相互監視的な村のあり方を嫌うので「社会は個人に干渉すべきではない」と感じるようになる。個人の理想は村から出ることはできるが、それを社会二戻す仕組みはないのである。村は村だけで利害調整を行う。だから村は過疎化し、外に出た人たちは孤立する。一人ひとりの人生をみるととても複雑なことが起きているが、構造自体は極めて簡単である。

ローラは政治的発言をすべきではないという場合それは「村を離れた人が村に干渉するなどとんでもないことだ」という意味になる。だから村人がローラの政治的な発言をすべきかということを決めるべきではないというカウンターの価値観が生まれる。

ところがこれは裏返すと、ローラの発言は個人が勝手にやっていることだから社会とは関係がないということになってしまう。しかし、日本人は窮屈な村落に慣れているのでそれに気がつかない。この主張をした人は多分自分が何を言ったのかよくわかっていないと思う。この後のコメントで延々と個人が政治について語ることの「リスク」について言及していた。

前回はアレルギー反応としての辺野古反対について見てきたのだが、実は窮屈になりすぎてしまった村落に対する反対意見の表明としての「個人主義」という考え方もあるのだなと思った。

例えば自分勝手としての個人主義は立憲民主党などのリベラル政党に見られる。みんなが好き勝手に意見表明はするがいつまでたってもまとまらず政治問題解決のために事務所をつくったり議員同士が組織的に協力しないという学級崩壊的な世界である。だがこれはリベラルでは取り立てて珍しい光景ではない。そして彼らが集団でまとまろうとすると党議拘束がかかり少数の執行部が決めたことをしぶしぶみんなが守るという集団になる。彼らはそのやり方を学校で習っているわけでもないだろうから、日本人の「村人DNA」がとても強いことを意味しているのだろう。

日本人はほぼ無意識のうちに強い村意識を受け入れている。これをいくら長々と書いたところでキリスト教文化が個人の貢献を元にした公共を作っているということを見たことがない人には、西洋的民主主義の仕組みは理解できない。

日本の民主主義が崩壊しているという不満を共有する人は多いが、実はかなり複雑な背景があると思う。村的民主主義(実際には集団そのもの)が崩壊しかけており、かといって個人主義的民主主義も理解されてこなかった。保守と呼ばれる人たちは強い国家が村を再建してくれることを望んでいる。そしてリベラルと呼ばれる人たちはその村に取り込まれたくないと思っている。しかし、国家権力は自分たちだけが快適に住めるオトモダチの村を作るだけで国民を救済してくれないし村から離散した人たちは一致団結して新しい社会を作ろうとは思わない。だから、いつまでたっても問題が解決しないというのが平成も終わろうとしている2018年の政治風景なのではないだろうか。

しかしながらこの問題の最も基礎にある問題は、自分たちの社会が何であって何を望んでいるのかということを言葉にして外形化できていないことなのではないかと思う。表面的には日本語という同じ言語を話しているのだが、お互いに意思疎通が不可能ということなので、いわば我々は現代のバベルの塔に暮らしていることになる。