Twitterをやらなくなったという話

この一年で「SNSの選択肢が増えたな」と思っている。システムとしてそれほど新しいものが出ているというわけではないのだが、人が居着いた感じがある。YouTuberという言葉は定着し、インスタグラムのインフルエンサーなどという言葉も補足説明なしに使えるようになった。と同時にTwitterで過ごす時間が極端に減った。




Twitterは荒れた印象で問題解決にはそれほど役に立たないのだが、質問サイトやファッションサイトなどは建設的でやっていて楽しい。建設的な空間ではある程度の協力関係も築けるし、何よりも達成感がある。

一方、2018年の始めには「2ch化しているな」と思ったのだがTwitterはかなり荒んできた。Twitterが荒れ始めたのは皮肉にも世論形成に役に立つということが認知されたからだと思う。多分、お金をもらってやっている人や、嫌韓本を売りたくて極端なことをいう人がいるのだろう。ダウンタウンが荒れてお金持ちが郊外に流れるのに似ている。

Twitterの不毛な政治議論に嫌気がさした人が異議申し立てをしてTwitterを離反するというようなことはないように思う。知らず知らずのうちにTwitterを覗かなくなった。他に楽しいことがあり、そのためには準備も必要だからである。地上波のテレビを見ることも減った。やることがないからテレビをつけようという機会が減ったからだ。YouTubeやストリーム系の韓国ドラマを見るのに忙しく、わからない単語を調べるのも面白くなってきている。ワイドショーはなんとなくフォローしていたのだがバラエティは完全に視野から外れた。ダウンタウンが芸人を閉じ込めて炎上したという話もYahoo!ニュースで見たきりで全くフォローできていない。「どうせつまらないんだろう」と見なくなると予告も見なくなるので視野から消えてしまうのである。

しかし、SNSで活動するのは難しいという人もいるかもしれない。やりたいことがないととてもつまらないのだ。例えばインスタグラムが楽しいといってもそれはやりたいことがある人の話であって「何もやりたいが流行について行きたい」という人にはとてもつまらない場所だろう。中にはSNOWなどに手を出してイタイおじさん化している人もいるかもしれない。Twitterは井戸端会議としては面白かった。取り立ててやりたいことがなくてもなんとなくつながっているという感覚が得られる。あるいはTwitterが流行したのは日本人の受身的な姿勢にあっていたからなのかもしれない。なんとなく「Twitterが荒れてきた」という現実に目を背けてきたのだが、やはり他に面白いことができると心の中の専有率は下がってくる。

SNSツールの数が増えるのはいいことだと思う。日本人の中にやりたいことがたくさんありそれなりに表現方法を身につけた人たちが増えているということを意味しているからだ。やはり日本人のITコミュニケーション能力は上がっているのである。

WEARにも写真の技術を積極的に覚えて自分なりの表現方法を身につけている人が大勢いる。これも出始めの頃には「ショップの店員が細々とやるだけなんだろうな」というような印象だったのでずいぶん育ってきた印象がある。プロとアマチュアの中間という意味ではカラオケに近い。

カラオケは単なる遊びではないかと思われるかもしれないが、実は少しずつコンテンツにお金を払おうという機運も生まれている。これもTwitterだけをやっていると気づかないのではないだろうか。もちろん、生計を立てるというところまではいかないのだろうが、取るに足らないコンテンツで稼いだ金でコンビニのコーヒーなどを飲むと不思議な気分になる。何もないところからお金が湧いてきたような気分になるのである。もちろんYouTubeのように大成功者が出ているプラットフォームもある。YouTubeもテレビの人たちから見ると「所詮カラオケ」だったのだろうが大衆の力というのは恐ろしいものだ。

やりたいことがあり表現方法を身につけたい人にはネットはとても楽しい場所になりつつある。それは同時に、やりたいことが見つからない人にとってはとてもつまらない場所になりつつあるということでもある。建設的な人は別のSNSに流れてしまい、お金をもらって極端なことをいうような人しか残らないからだ。お金をもらって人を不快にする人とその人たちに不快にさせられるという人がいる一方で、やりたいことをやっていたらお金が回ってきたという人が共存する世界なのだ。

この変化は永遠に続くと思われた閉塞的な世界が少しずつ変わりつつあることを意味しているのかもしれない。2008年(リーマンショック)から2011年(東日本大震災)までのあの停滞しきっていた時代から少しずつ立ち直り始めているということのように思える。暗闇の10年が過ぎ去り新しい光が見えはじめているのかもしれない。