労働者が小作化される日本と李氏朝鮮の共通点を考える

前回は大韓帝国を見ながら「現在の検地」にあたる労働統計の問題について考えた。今回は、李氏朝鮮と現代日本の似ている点、違っている点について考えたい。




似ている点は、足元の税収に興味が持てなくなっているという点である。前近代国家においては田んぼの収入がそのまま収入になったので、検地データ(朝鮮では量田というそうである)がそのまま税収計算の基礎となっていた。現代の日本には資源がないので労働力が税収計算の元になっていると考えて「労働力は現在のコメである」という単純化ををした。

李氏朝鮮はもともと元と親密だった高麗の政権を奪って成立した国である。当時の女真は各部族に別れて明の臣下だったのだが、日本が朝鮮に侵攻してきた時代に統一をなしとげてしまった。これが結果的に明を滅亡に追い込む。女真は満州と名前を改め、国名も清とする。そして自信が中華秩序の中心になろうとして、李氏朝鮮も属国になてしまった。こうした経緯から、李氏朝鮮には清に対して複雑な感情がある。朝鮮が清に屈服させられたのは1639年のことである。そのあとも清につくかどうかでもめ続けるのだが、軍事力では勝てないので朝廷は議論を内向化させてゆく。

現代日本は全く別の道を歩んでいる。日本はアメリカに屈服させられるのだが、共産主義に対峙する必要があり「服従」はしないですんだ。結果的には東アジアにライバルがいない状態になり中国が資本主義市場に参入するまでは独占的に世界の工場の地位を享受し続けていた。ただ「軍事的に負けてしまい」その後「経済で勝った」と思っていたのに「だんだん勝てなくなってきている」という点は似ている。自身で問題解決ができないのに秩序は保たれているという状況似ている。勝てなくなると議論が内向きになるというのは李氏朝鮮と同じである。

安倍政権の最大の功績は「薄々負けていると気がついている人たちの目をそらせることに成功した」ということなのだと思うのだが、これもダメになりかけている。北朝鮮交渉からは排除されかけているし、ロシアとの関係もよくない。外交の安倍という幻想が崩れつつある。このまま安倍支持者たちがどこまで目を背け続けるのか、それとももっと強い麻酔を求めるようになるのかということは今はわからない。

このように経緯は異なるものの、自分たちの無力感を払拭するために議論を内向き化させるという点では共通点がある。安倍政権は強さという幻想を求めて外交敗北を重ねるのだが、実際にもっと内向きなのは政権運営に失敗してしまった民主党系だ。彼らが立憲主義にこだわりを見せるのは李氏朝鮮が典礼のあり方でもめ続ける姿勢に共通するものがある。

このように、経緯は異なるものの結果には似たところがある。すると、なぜか中間搾取者が跋扈するという帰結まで重なって見える。日本で現在中間搾取者になっているのは人材派遣だと思う。彼らは労働者を企業や組合から引き剝がし、労働者をお互いに協力できない小作にすることに成功した。彼らは政治家たちの強力なスポンサーとなるとことで政治から黙認される存在となっているのだが、アメリカとの経済競争を通産省が指導していた頃には考えられなかった話だろう。労働者の小作化は労働者を衰退させ消費市場を破壊するということは誰の目にも明らかだからである。

労働市場が荒れれば「耕作放棄」が増えて生産性が上がらなくなる。が、朝鮮がそうだったようにこうした変化は暫時的に起こるのですぐには気づかれないという点も似ている。ここから逆算すると「日本は既に戦争に負けており、競争意欲を失っている」という仮説が成り立つのである。敗戦相手はアメリカではなく中国だろう。

本来の経済戦争で勝てていれば労働者を搾取する必要はないのだが、勝てなくなったので搾取が始まったとみなすことができる。勝っているときは「戦力」だった賃金労働者が勝てなくなったことで単なる搾取対象者になってしまったという仮説である。労働者は企業から搾取されるだけなのだから、統治者としての国にはもはや労働基準監督署も賃金統計も必要ないのだ。

しかしながら、李氏朝鮮と日本には決定的な違いがある。それが民主主義である。日本人には政治状況を知る機会があり、選挙を通じて政権を変えるチャンスもある。李氏朝鮮時代の農民たちにはそんなチャンスはなかった。ただ、今までの政治議論を見ていると、政治議論に参加する日本人はどうも二手に分かれている。気分だけは統治者でいたいという人たちと、妙に変な神学論争にはまり「民主主義とか平和」について語りたがる人たちだ。例えば「現在の労働市場は小作化している」などと言っても、多くの人がそんなことはないと否定するはずである。頼まれてもいないのに政権運営がうまくいっているということを正当化したがる人が多いのである。