村落主義的な日本はどうして海外からの移民を受け入れないのか?

ワイドショーで面白い話を聞いた。村八分裁判の話である。日本の村がどのような原理で統治されているのかということがよく分かる話だった。




退職後に憧れの田舎暮らしを始めたのだが、自治会から追い出され、ため池の水を止められてしまった。発達障害の息子は施設に戻らざるをえず、高いお金をかけて直した家にも住めなくなった。結局村を出て行かざるをえなくなったということだ。場所は大分県である。(朝日新聞

この件について解説している人の話が面白かった。日本の村落共同体が新参者を嫌う理由の一つとして入会地の権利があるのだという。入会地は村の共同財産だ。この入会地の存在は日本で公共という概念が成り立たない一つの重要な要素になっている。日本人はすでにある共通の財産を守るためには団結するが、新しく共通の財産を作ろうとは考えないのだ。

よそから人が入ってくることによってこの権利が「減る」と考える人が多いのだという。

もう一つが序列の崩壊である。よそから入ってきた人は、まず村の駐在さんなどに「誰の所に最初に挨拶に行くべきなのか」ということを聞かなければならないという。都会から入って行く人は「地域の人は全て敵である」と考えて気を使ったほうが良いというような話をしていた。これも序列が共通の財産のようになっているということを意味している。この序列秩序を侵されることを日本人は嫌うのだ。

このことから日本の村落共同体が基本的にゼロサムの世界を生きていることがわかる。誰かが入ってくるということは自分たちの取り分が減るということを意味する。さらに意思決定は村の複雑な人間関係によって成り立っているので、それが崩されると全てが破壊されてしまうのである。だからよそ者は排除されることになる。今回の裁判では実はこの序列に新参者が挑戦したことが諍いの原因になっている。

日本人の気持ちの中にはこの村落的な態度が染み付いていて、合理的な判断に優先する。例えば日本人が「年金や医療といった共有財産が侵されることなく自分たちを助けてくれる働き手が外から来てほしい」と望むのは極めて自然なことである。年金や健康保険などの共有財産は「入会地の権利」のようなもので、外から人が入ってくるということはそれが減ることを意味する。日本的なゼロサムの村落社会に生きている人には「よそから人が入ってくると損をする」というのは極めて自明なのである。だから移民ではなく「テンポラリの労働者を限定的に住まわせる」という政策が発明されてしまうのだ。

公共共有財産は自分たちが増やすことができるものなのだが、閉鎖的な村落コミュニティにおいては共有財産のイメージは「限られた」あるいは「減る可能性がある」ものだ。一番イメージしやすいのは田畑を潤す水源の水である。水源は限られているので、人が増えると水が枯れてしまう。漁村においても魚は限られており採り過ぎればなくなってしまう。意外とこういう農村・漁村的な考え方が今でも日本の意思決定に大きな影響を与えている。

日本人の多くが、個人が協力して作る「西洋的な公共」を想像できず、想像したとしても「伝説上の麒麟」しか思い浮かべられないということは明らかなのだが、日本人が「入会地」のような概念を理解できなくなっているという点も問題かもしれない。自分たちの政治的イメージに大きな影響を与えているのだが、それがどんなものなのかがわからなくなっているということになるからだ。これは日本人が自分たちの概念を言語化しないということと、近代化の際に「日本的なものは劣っている」として意識から消してしまったことが影響しているのではないかと思われる。

面白いなと思ったのは「日本人は序列と入会地にこだわる」ということを指摘している人が、地方ぐらし数十年というプロのよそ者であるという点だ。この人はいろいろな地域を転々としているので、田舎に特有の日本人性を客観視することができたのではないかと思われる。

もともとこの話は外から越してきた人が「自治会の運営のあり方(お金の使い方)」に異議を申し立てたところから始まっているようだ。入ってきてから10年も経っていない新参者がそんなことを言うのはおこがましいとなったらしい。西日本新聞に少し詳しい経緯が載っている。つまり原因は発言権という財産である。村には言語化された意思決定基準がなくその場の損得でやっていいことといけないことを解釈してきたのだろう。だからよそから「民主的な方法論」を持ち出されると、それに対抗できない上に、自分たちを丸ごと否定された気分になる。だから、水を抜いて村八分にしたのだろう。Twitterでよく見られるように異議申し立てをなかったことにしようとしたことになるのだが、つまり「異議をどう処理していいかわからないからとりあえず布団をかけてしめころそうとした」ことになる。

移民を連れてきて日本に住まわせると「まあまあなあなあ」で成り立っていた日本の意思決定システムは機能しなくなるだろう。これが薄々わかっている上に「自分たちの地位が相対的に低下する」と考えるから、日本人は外国籍の人に地方参政権を認めさせようとは思わないのだろう。だが、日本人の中にも異質な人たちは増えている。この「外形民主主義と村落主義のデュアルシステム」を再検討しない限り、日本はいかなる意思決定もできなくなってしまうはずだ。

日本の民主主義は「これを取り入れないと世界という村に入れてもらえないから」という理由で採用されているところがある。だから、経済を閉鎖してしまうとこれが村落的な状態に戻ってしまうのだろう。実際に、経済的に勝てなくなった日本では徐々に民主主義が失われ村落的な「古臭い自民党政治」が復活してきている。外から見ると何が行われているのかよくわからない上に説明もグダグダという「例のあれ」である。

とはいえ自民党の村人たちもこれを言語的には説明できないので、憲法という体系を使って政治を自分たちが理解できるところまで引き戻そうとしたのかもしれない。しかし、その結果生まれたのは単なるデタラメな憲法もどきである。

自民党の人たちが現実に即した憲法を作るとしたら「揉め事はその場その場で話し合って決めるが、誰がどの程度の影響力を持つかはその場のしきたりによって決める」というものになるはずだ。附則として「ただし俺のことは尊敬すること」ということになるのだろう。