中国はなぜ新疆ウィグル自治区を侵略したのではないのか?

Quoraで面白い質問を目にした。中国人のプログラマが新疆ウィグル自治区は昔から中国の版図なのになぜ侵略したと海外から文句を言われなければならないのだと聞いていた。ここで相手にされなかったので、さらに質問を重ねていた。これに答えたところ、彼から猛反発を食らった。




面白いなと思ったのは日本人との違いである。日本人は論が組み立てられないので、都合の良い論(つまり結果)を羅列した上で「みんなそう言っている」と逃げようとする。結果主義的な傾向が強い。一方、彼は政治の専門家ではないのだろうが、一応自分なりに論を組み立てている。日本語が極めて堪能なことから日本で生まれたか育った人なのかもしれないし、外国語としてここまで使えるとしたらかなり頭がいい人のはずである。

まず、問題になるのは国家観である。帝国主義だった清と多民族・理念国家である中国を接ぎ木している。クルド人と同じようにウィグル人は近代的国家として独立した経験がないので、これだと侵略されているという事実がなくなってしまう。が、ウィグルに異議申し立てをする人たちがたくさんいる以上「漢民族の侵略行為がない」と言い切るのは難しいだろう。ウィグル人はトルコ系のイスラム教徒だが清に服属する前はモンゴルに服属していた。

ただ、議論をしている途中で彼は「あなたの言っていることはよくわからない」などと相手を刺激することを言ってくる。よくテレビで見る中国人の議論の特徴と同じなんだなと思ったし、いわゆるネトウヨという人たちにも同じく相手を挑発してくる傾向がある。相手をイラつかせて揺さぶるのである。そこでついつい「彼の言っていること」に反論したくなってしまう。つまり、彼の論理に反論しないと議論に負けたことになるのでは?と思ってしまうのだ。なんとなく日中・日韓の問題が泥沼化する理由がわかった。テクニカルなところに入り込むと「相手の嘘を証明するのがお仕事」になってしまうので、本来解決すべき問題が見えなくなる。

しかし、よく考えてみると、1,000万人の人口しかいないウィグル人が100万人以上拘束されて「漢人支配から脱却したい」と言っているのだから、中国共産党の支配の正当性が揺らいでいるのは明から。彼が議論に勝とうが私が負けようがこれが変わることはないのである。

人々がついついこうした議論に陥りがちであるということがよくわかった。南京大虐殺、徴用工、慰安婦問題など様々な問題がこうした状況に陥っている。Quoraでの議論の途中経過を見ているとわかるのだが、こちらは「ウィグル人収容の問題」を持ち出すと相手が「スペインでカタルニア人が独立したがっているがあれも弾圧なのでは?」と言ってくるという具合である。

が、15分くらい考えて途中で「議論に負けてもいいな」と思った。まったく別のことがわかったからだ。議論の前段では民族自決の原則を持ち出して、中国共産党の非正当性を証明しようとした。だが、議論の途中でこれは無効になりつつことは明らかであるということもわかった。にもかかわらずウィグルの議論は「民族独立の問題」として扱われる。果たして、昔あった民族自決の議論と今の議論は同じ「民族問題なのか」ということを考えたのである。

普段ならこんな面倒なことは考えないのだが、異質さがぶつかる議論ではスウィッチが入るので1分くらいで議論がまとまることがある。これが本当の議論の効用なのだろう。

まったく別の現象としてアメリカの福音派の問題を思い出した。彼らはアメリカの成長について行けなかった人たちだが、実力では負けてしまうのでこれまでの民主主義では異議申し立てができなかった。成長と成果というキレイゴトを代表していたのがオバマ大統領だ。そこでトランプ大統領を祭り上げてスウィングバックが起きている。アメリカには民族はないが、プラットフォームとして福音派という宗教が使われた。内心を言語化する理論的支柱とみんなが集まる場所が「この類の運動」を支えているのである。

逆に北朝鮮ではいつまでたっても民衆暴動が起こらない。これも理由は明らかである。朝鮮半島は氏族ごとが集まって先祖崇拝する伝統はあるが教会がない。みんなが心を一つにして集まることがないと大規模な抵抗運動は起きにくい。大韓民国もそうだったのだが、国が豊かになると光州で地域暴動が起こって「新しい伝統」を獲得した。現代韓国ではここからくる流れを「革新」と呼んでおり、慶尚道と全羅道の対立という構図がある。

ここから、満人地域から共産党への異議申し立てが起こらず、チベットや新疆ウィグル自治区で民族自決の運動が消えない理由がわかる。つまり、宗教的伝統がある地域では人々が共通の価値観で集まることができるので「私たちは私たちのことを自分で決めたい」というアイデンティティが残るのである。いっけん、ウィグルの問題とアメリカの福音派の問題はまったく違っているように見えるのだが、アメリカは「民族」という概念が使えないだけで、実際には民族的固まりができていることになる。

こうした動きが起こるのはグローバル化が起こりその揺り戻しとしてのローカル化欲求があるからだろう。

加えて日本の問題ですらこれで分析できる。日本人は村落というつながりまでは獲得できたが宗教的な教会を持てないのでここから先のまとまりを作ることはできない。かといって公共も理解しないので理念国家も作れない。だから日本は未成熟な民族運動はあるが中に敵を見出せないので外に敵を作ろうとしている。かといってそれに対抗する人たちもグローバル化を推進しているわけではない。私たちは自分のことを日本民族だと思っているが、実際にあるのは日本語を話し、特定の内心を持たない、小さな孤立した村の集まりでしかないという絵が描ける。

中国共産党は様々な理屈付けで新疆ウィグル自治区の支配を正当化することはできるだろうが、それでもウィグル人の異議申し立ては消せないだろう。彼らは異議申し立てをする「少数者」を100万人も捕まえて「再教育」するしかない。ウィグル人は1000万人程度なので、1/10という割合は尋常ではない。議論や競争に勝つことはできても相手を納得させることはできないのである。

だが、多分それよりも重要な発見は、議論というのは特定の目的を持たない人たちの間に落ち込むと「言った言わない」の応酬になり膠着する可能性が高いということだ。それが楽しいならそこに止まればいいと思うのだが、抜け出したいならば、独自の視点を持たなければならない。