日本人が「自分の頭で考える」とどうなるのか

時々同じTweetが別の人たちから流れてくる。伊勢崎市という田舎の市議会議員さんのこれである。




すでに、このブログを読んでいらっしゃる方ならわかると思うのだが、ここで言っている主権という考え方は、多分村落共同体の入会地の権利のことであろう。イメージしやすいのは水田に水を引く水源地である。それを相続権という言い方をしており、伝統的な考え方が日本人の公共のイメージをゼロサム世界で縛っていることがわかる。既得権という意味に置き換えて使う人も多いのだが、既得権も多くの人に分け与えようとすると減ってしまうという含みがある。

この市議会議員のバックグラウンドはよくわからないのだが主権という言葉の使い方が乱雑なところから見ると政治的な教養はないと思う。主権は国家主権であって、彼らが(多分一人の意見ではないのだろう)気にしているのは新規住民の天賦人権のことだろう。なぜこの二つがごっちゃになっているのかはわからないのだが、漢字の「権」がついているから同じようなものだろうと考えているのかもしれない。

さて、「人権」や「主権」がどのような由来で生まれた言葉かということは調べればわかるはずだ。つまり、彼女たちはこの言葉を調べないままで使っていることになる。最初は興味がないからなのではないかと思ったのだが、いろいろ調べてみてちょっと考えが変わった。パニックにおちっているのではないかと思う。

このTweetが問題にしているであろう外国人の天賦人権が認められるべき理由は、移民が持つ新しい知識がその社会を成長させるからである。そもそも「成長する社会」が前提になっていて、新しい知識をマネジメントする能力がその社会に備わっている必要がある。ところが、安倍政権がすでに起こしている地方の混乱はこれとは全く異なった多様性を生み出している。そしてこの多様性は「よくわからないままによくわからない人たちが入ってくる」という状態を生み出しており、これでアレルギー反応が生まれるわけである。

このTweetを問題にする人が多いのは、天賦人権という言葉をないがしろにする人が増えているからだろう。流れとしては片山さつき(現大臣)の人権無視の発言と憲法改正議論が念頭にあるのかもしれない。伊勢崎市のこの議員も片山さんの発言を念頭においている可能性がある。

社会が複雑になると人々の権利がぶつかることが増えるうえに、見たこともなければ聞いたこともない権利を主張する人が増える。それが理解できないとついつい「異議申し立てをしている人」の口を塞ぎ、上から布団をかけて絞め殺そうとする。だから保守の人たちは天賦人権を嫌う。理解できない上にマネジメントもできないからである。ここでいう保守というのはすなわち「知っていることしか許さないし扱えない」という考え方のことである。つまり保守は歴史ではなく「私の知っている世界」のことを意味しているに過ぎない。

保守は「私が知っているものしか認めない」という知的敗北のことなので、保守理論家が自分で新しい状況に対応しようとすると大変なことが起こることがある。例えば一神教を理解できなかった明治維新の人たちは、それでも「ドイツの皇帝のように天皇も理論化しなければ」と考えたのだろう。そこで知っている道具箱を探して生まれたのが「お父さんやお母さんを大切にしてみんなで仲良くしよう」と「長い間あるものはきっとありがたい」という価値観の組み合わせだ。これが教育勅語である。彼らの時代にも情報はあったはずだが、彼らはそれを扱おうとはしなかったし、扱えなかった。

ところがこの論理ではまず「言語体系が違うアイヌの人たち」を理解できず、中国との関係の深かった同系の言葉を話す沖縄や、歴史も言語も異なる朝鮮半島も統合できなかった。日本人を定義できなかったので「日本人以外」を定義できず、ゆえに彼らをどう扱っていいかがわからなかった。それでも戦争に勝ってしまう。するといよいよ日本の統合原理としての天皇の位置付けを理論化しなければならなくなる。しかし、政争に利用され議論そのものを萎縮させてしまった。戦前の日本もまた目の前の選挙に勝つことの方が重要な社会だった。そうこうしているうちに日本は戦争に負けてしまい、天皇は日本国民の象徴ということになった。そのため、今でもアイヌや朝鮮系の日本人を「なかったことにしたい」人が多い。日本国民を彼らの気に入るように定義しようとすると多民族性が扱えなくなってしまうからである。

例えば、Twitter上でアイヌの人たちに「アイヌ人はいなかった。いると思うなら定義してみろ」という人がいる。だが、よく考えてみると日本人は三、四代すると先祖が辿れなくなってしまう人が多い。何が日本人なのか私たちは定義できないのである。

冒頭で挙げた伊勢崎市議の妄言も、よく理解できない人権や主権という概念を村落の入会地の権利のような限定されたリソースの問題に置き換えて理解している。暗記中心の教育のために途中の議論がすっかり抜けている。だから自分で考えると「主権は田畑を潤す水源地の利用権のようなもの」ということになるのだろう。これを議論して導き出したというところに痛々しさがある。

だが、彼女たちの倒錯はこれだけでは理解できない。実は複雑な問題が絡んでいる。群馬県という衰退する県の鶴の尻尾にあたる地域は外国人が増えている。ブラジル人街ができている大泉町と伊勢崎市は太田市を挟んで東西に位置するが、実はこの3市町は外国人が多い上位3つ(群馬県庁)なのだ。気がつくと周りは言葉の通じない外国人だらけだが、彼らはこの状態をどうすることもできない。多分何が起こっているのかさえ理解できていないのだろう。実は外国人労働者の数は派遣労働者をしのいでおり工場労働では置き換えが始まっている(日経新聞)ようである。これを推進しているのが安倍政権だが、保守は安倍政権は批判できないので、攻撃対象を外国人や人権を主張する人たちに向けている。

だから、彼女たちに議論をして彼女たちが勝とうが負けようが、この現実は変わらない。日本の経済は衰退しており外国人の低賃金労働に依存しなければ成り立たなくなっている。外国人労働者も人間なので、仕事がなくなったら「はい帰ってくれ」とは言えない。200万人を越える外国人を数千人(産経新聞)の職員で取り締まることなどできない。不法滞在の外国人に頼れば最低賃金も払わなくて済むのだから、これに依存する地方の産業は増えてゆくはずである。

しかし、実際に自分がこうした「不毛な戦い」を経験してみると、それにも理由があることがわかる。人格を挑発され論の不備を指摘されるとそれを正当化したいという気持ちが生まれる。目的がないままでこうした論争に「首をつっこむ」とついつい、論争の無限ループに入ってしまう。が、勝手も負けてもステータスがはっきりしない外国人はいなくならないし、地域で日本人が彼らをどう扱っていいかという議論をやらなくてすむ理由にはならない。例えば参政権を与えないということは「ルール策定に責任がない」ということでもある。非正規職員が職場を分断したのと同じことが今度は「非正規住民」という形で社会に広がる。日本人は平成の30年間で経験してきた息苦しさの意味をさらに苦い形で味わうことになるだろう。

我々は伊勢崎市議会議員の妄言をみるとついそれをたしなめたくなる。しかし、その議論に勝つことには全く意味がない。目の前にある問題は何一つ片付かないからである。