答えがわからないと人々は混乱して感情的な議論を始める

Quoraで面白い体験をした。女性がパスタをスプーンで食べるのはなぜかという問題にいい加減な回答をしたところ怒られたのである。答えは意外に簡単だったのだが、これがわからないままで適当に書いたのでちょっと面倒なことになった。




最初は「情報が曖昧なのにこれが正解だとか違っているなどと騒がないほうがいいのでは?」と書き、それなりに高評価がついた。つまりどう食べようが自由だと書いき、それが支持されたのである。他人からとやかく言われたくない人が多いのだろう。だが、イタリアを知っている人から「いやそれは違います」というコメントがついた。本場の事情を粗末に扱うなというのである。この辺りから話がややこしくなった。

こちらも答えを知らないのでいろいろな例を出した。英語圏の人も寿司の食べ方や箸の使い方について気にする人が多い。しかし、寿司は好きに食べればいいし、日本人の全て正しい知識を知っているわけではない。にもかかわらず日本人には「寿司ポリス(日本の正しい寿司についてあれこれ語りアボカドやサーモンなどを認めない人)」が多い。同じように日本人がイタリア人に成り代わって「パスタポリスになっても仕方ないのでは」と反論した。

だが、イタリアを知っている人にとってみれば「イタリア人はスプーンを使わない」のは明白なのだから、日本人が取り澄ましてスプーンを使っているというのはとても滑稽に見えるのだろう。反論したがっているようだ。こうなるとできることは二つしかない。無視するか調べるかである。

検索したところGoogleは知っていた。どうやらこれは渋谷で生まれた日本の文化らしいのだ。つまり、和風スパゲティのおしゃれがあたかも正式のマナーのように広がったというのが正解のようなのだ。日本航空で読める機内誌の編集をしている人のブログが見つかった。

もう1つびっくりしたことがある。パスタにスプーンを添えるのは日本だけといわれているけれど、これも同店が始めたことだったのだ。もちろん、ちゃんと理由がある。たらこスパゲッティは、器にほぐしたたらこ、バター、塩胡椒、隠し味の昆布粉をあらかじめ入れておき、そこに茹で上げスパゲッティを投入し、スプーンとフォークでザザザッと和えて作る。そのスプーンとフォークを、そのままお皿の縁に添えた、というものだったのだ。

パスタにスプーンを添える理由とは。JAL『SKYWARD』10月号和パスタ特集

諸説あるそうだが、多分正解なのは「もともと和風パスタの演出として始まったものがいつのまにかイタリアではそうなのだという誤解になって広がった」というものである。つまり、渋谷で中途半端に見聞きした人が「これが正解でございます」と語ったのがマナー担ったということになる。いかにも正解にこだわる日本人らしい。が、実際にイタリア人はそんなことをしていないので、今度はイタリアに行った人たちが「いやそんなことはない」と言いだしたということになる。これも正解にこだわる日本人らしい。寿司ポリスどころかパスタポリスまで誕生したということになる。

面白いのはその過程である。そもそも壁の穴のパスタはパスタを日本流にアレンジしたものである。が、おしゃれな渋谷に憧れた日本の若者たちは「ああ、これが本場のやり方なのだ」と思って、それを各地に広めたのではないかと思われる。つまり、イタリア人に成り代わって「正解」を伝えたのだ。「単なる演出に過ぎない」ものが正解ということになってしまい、それを紹介する雑誌などが増えた。しかし海外良好に行く人が増え「いやおかしいぞ」となるのだが、そこで正当化が起きた。

2004年の記事に「いやこれはアメリカのマナーなのだ」と紹介している記事を見つけた。イタリアでそのようなことをやっていないのは知っていて書いているにもかかわらずどこかに正解を見出そうとしたのだろう。英語で情報を探してみたところ、確かにアメリカではスプーンが用いられることがあるらしく「イタリア人からみると変だ」という話し合いがあった。なので諸説の中には「イタリアでなければアメリカだ」と言っているものもある。しかし、日本のスプーンが壁の穴起源だったとするとこれは本筋とは関係がなさそうだ。

この話が面白いなと思った点は二つある。政治や経済のネタについては厳密に調べるのだが、文化の話題は適当に流してしまうことがある。だが、人々は却って文化的なネタの方に強く反応することがあるという点である。次に、原典を示してきっちり解明せずに曖昧なまま議論が進むと「断片的な正解」を持った人たちが喧々諤々と議論を始めることがある。わからないからこそ声を大きくする人もいて、それに納得できないからという理由でさらにその声が大きくなることもあるのだ。

今回の場合は正解がなんとなくあったのでからあまりややこしい話にはならなかったのだが、政治経済の問題は問題も正解も自分たちで作らなければならない。そこに正解にこだわる文化があると「一緒に正解を探しましょう」ということにはならず、正解の押し付け合いみたいなことが生まれてしまう。さらに議論をずらす人がいて状況はますます混乱する。

そもそも正解がないところに感情的な議論が始まると、まともな人々は疲れ果てて政治議論そのものを止めてしまうだろう。こういう時こそ全体像を調べ直してみる必要があるのではないかと改めて思った。

かつては図書館に行ってあれこれ調べなければならなかったのだが、最近は検索するだけで概要はつかめる。大切なのは一次情報なのだが、それがどう変容して「その時なり」の正解になったのかを掴むのも、正解にこだわる文化では重要に思える。

いずれにせよ、全体がわかってから議論を眺めると自分も含めて無駄な回り道をしていたなと思った。わかってしまえばなんということはない話だったわけだ。