正解社会について考える – 「パワハラだと思われたらパワハラ」というのは間違い

最近よく、セクハラだと思われたらセクハラだしパワハラだと思われたらパワハラだということが言われる。これは間違いだと思う。今回はこれについて考える。




今回の問題を考える前に、まず正義と正解を分けておきたい。これはこの文章の中の変数のようなもので必ずしも「こうでなければならない」ではない。正義は自分の気持ちから出てきた気持ちだが正解は必ずしもそうではないというのが今回の定義である。何がどうできたかということはわからなくても「とりあえずそう言っておけば間違いがない」のが正解なのだ。日本人は正解の中に居ることに居心地の良さを感じ、人にもそれを伝えたがる。

しかし正解には難点がある。正解は社会の中にあるので自分で書き換えができないのだ。このため正解でない人(男女しか結婚ができない社会での同性愛者など)や正解から抜け出せない人(いつまでたってもお辞儀ハンコを好ましいと思う人)などが出てくる。正解はいつかは形骸化し堅苦しく不機嫌な社会を作る。

日本の正解文化は根強い。例えば、過去に「内心」という言葉を使ったときに、これを内的規範と指摘した人がいた。これは内心(自分のキモチ)に「規範」という正解と正解でないという概念がつけ加わったものだ。内心は必ずしも正解や規範である必要はない。自分が他の他人とどう違っているかということを理解するのは重要だが、それを他人に承認してもらう必要はないからだ。だが、日本人はやはり社会や規範からなかなか抜け出せない。日本人は個人が個人であるというだけでは不十分な社会のだろう。


職場のハラスメントはコミュニケーション不全だ。正常な状態であれば不愉快な思いをした人は「それは嫌だ」と言える。中には職場を変える人もいるだろう。最初から不愉快な状態を我慢しながら働いているか日頃のちょっとした不愉快を言い出せなくなっているというのがそもそも問題なのである。問題は関係性と環境にあるので、問題が起きた時に「何を言ったか言われたか」を考察してもそこに答えはない。

子供の発達期に「イヤイヤ期」というものがあるそうだ。この時に「お母さんなんか嫌いだ」と言われるとショックを受ける母親がいるという。実は「自分の気持ちが整理できず、それを一番信頼している母親にぶつけている」という説明があるのだという。つまり、子供の状態には「私」がないので「そのイライラの原因が」私から来ているのか母親からきているのかがわからない。その状態で母親に何かを言われると、イライラが母親に向いてしまうという説明である。

つまり、人間は原初の状態では「私とあなた」という区分けを持っておらずそれをいずれかの状態で学ぶ必要があるということになるだろう。だが、これを学べないことで、大人になっても自分の不調を他人にぶつける人がいる。ハラスメントには「逃げ出せない」という部下側の気持ちと、問題の根っこがどこから来ているのかわからないという上司のとまどいがある。

つまり、組織が何らかの問題を抱えていて中間管理職にストレスがかかると、それを部下にぶつけてしまうのだろう。つまり、考えるべきなのは中間管理職と組織の問題ということになるのだが、それが部下の管理の問題に矮小化されかねない現状がある。さらに部下の側が「逃げるか殺してしまうか」という心理状態になってしまうともう問題の収拾は不可能だ。

言いたいことが言えないというのはかなりのストレスだ。言ってしまうと左遷されてしまうのではないかとか、下手をしたらやめさせられるのではないかとなると、部下は思っていることが言えない。そこでICレコーダーを持って証拠を残そうというところまで思いつめられたとなると、もはやICレコーダーに録音されている言葉には大した意味はない。持ち出した時点で「奴がいなくなるか俺(私)が潰れるかだ」ということになっている。協力関係は崩壊し組織としては「積んでいる」のである。

成果を上げたと上司は正解を知っている人だ。だからその通りに振る舞うことで周りから褒めてもらえたのである。だが、人を使って仕事をするようになると誰かを説得したり協力してもらう必要が出てくる。これは別の教科の問題集を買ってきて解き始めるようなものである。ここで正解がわからないと、自分の中にあった弱い部分が出てきてしまい、それが実行できてしまう。仕事の成果は壊せないので「外面上は極めて優秀で人当たりのいい」人が部下を執拗にいじめることになる。こうしたいじめにも体裁さえあれば、それは不正解にならないのだ。

だから、たいていのパワハラセクハラには「言い訳としての大義」が出てくる。曰く「指導であって愛のつもりだった」とか「女性にもその気があると思った」などというのである。内心に訴えれば正義は動かせるかもしれないが、正解は社会が持っている規範なので本人を説得してこれを変えることができない。だから、そもそもパワハラを行う人が自ら「これはパワハラである」という判断基準を持つことは、本質的にないしできないのである。彼らが内心や内的判断基準を持っていないのでもうそれは動かせないのだ。

もちろん解決策はある。例えば「硬直化した正解」でなく「様々なケースのソリューション」を教えることで、問題解決の手段を増やすことはできるだろう。だがその場合にも「自分がそうされたらどう思うか考えてみましょう」と説明する必要がある。がそもそも「自分がどう思うか」など考えたことがない人にはそれはわからない。これまで数十年も「正解」に従うことで成功してきた人にとってそれは世界の終わりでしかない。

これについて概念的に説明するのは難しい。そんな人などいるのかと思ってしまう。そこで、誰か具体的な例はないかなと考えたところぴったりな例が見つかった。それが安倍首相だ。

安倍首相は官僚や親から正解を教え込まれて政治家になった人である。単にその正解を暗記するか読むだけで良いのである。岸家の正解を母親に吹き込まれ、就職して一瞬内心を持ちかけるがこれは父親によって潰される。議員になったら上司に「北朝鮮問題に功績があった」として選挙の顔に利用される。一貫して「正解を生きてゆく」ことを余儀なくされてしまったというかわいそうな側面がある。今では部下である幹事長と政調会長に内政を握られているので、やれることは憲法改正と外交しかないのだが、どちらも失敗している。この人に自分の言葉で話しなさいと言ってももう手遅れだろう。

なので安倍首相は対話という「いきいきした活動」ができない。対話モードになると彼は不機嫌になり言葉が早くなる。どうしていいかわからないとき人はああなるのだ。その意味では現代日本の正解社会を象徴するような人なのである。人間の新しい未来を作れるのは人間だけであり、その芽はそれぞれの心の中にしかないのだから、安倍首相は本質的に国家の破壊はできても改革はできない。

ハラスメントにも同じことが言える。ハラスメントが発生したらもうそれは「家庭や組織の失敗」なので、当事者どちらかを取り除くしかないということになる。正解しかない社会は未来を作り出すことができないばかりか、目の前にある不満さえ取り除くことができないのである。