戦いに夢中になり問題が見えなくなった立憲民主党

先日、COBOLについて調べていて気になる記事を見つけた。IWJなので岩上安身さんのところだと思うのだが、タイトルが「厚労省・屋敷次郎氏「COBOLで集計されている部分がある」!? 立憲民主党・川内博史衆院議員「COBOL言語での設計図をください!分析しますから」~1.23賃金偽装問題 野党合同ヒアリング 2019.1.23」となっている。これを読んでどんな感想を持つだろうか。COBOLに何か問題があると思わないだろうか。




今回は日本人がどうして問題を解決できないのかを見る。キーワードは村と競争である。

実際にビデオを見てもらうとわかるのだが、立憲民主党は「仕様を渡せないならソースから追う」と言っている。つまり、彼らが問題視しているのは「厚生労働省が仕様を渡さないこと」である。なぜ厚生労働省が情報を渡さないのかはビデオを見るとわかる。ものすごい勢いで恫喝されているので身をすくめてしまうのだろう。

だが、ビデオを見ないでタイトルの前半部分だけを見ると「COBOLそのものがなんだか悪い」ようにも思えてしまう。つまり、IWJは立憲民主党が何を要求しているのかということをあまり理解しないままでこのタイトルをつけたのではないかと思える。これが伝言ゲームの素地になっている。こうした誤解を生みそうなタイトルを簡単につけるところを「メディア」としては信頼ができないなと思う。

前回見たようにCOBOLには問題がある。中にいると気がつきにくいのだが、中央集権型(ホストコンピュータという)は陳腐化していて制度設計からやり直さないと次世代に大きな禍根を残すことになるだろう。そのためには中長期的な予算化が必要だ。「部外者がわいわい騒ぐ」ことで状況が余計にややこしくなってしまい、一体何の議論をしているのかわからなくなってしまう。

前回は「村人」と「第三者」という分類をしたのだが、ここで第三類型が出てきた。つまり、隣の村の問題を自分たちの問題に利用しようとする人たちがいるのである。

  1. 村人
  2. 知識のある手出しができない他人
  3. 隣村の問題を利用しようとする人たち

日本人は利益共同体のことは中朝的視野に立って判断ができ、利益分配もできる。が外の変化に気がつかなくなり取り返しがつかなくなるまで村を温存しようとするというところまではなんとなくわかった。

しかし、この厚生労働省の問題を見ると、立憲民主党の人たちは明らかに「仕様書」とか「コンピュータのアーキテクチャ」といった足元の問題にはまるで無関心である。ところが今彼らは「血眼になって」安倍政権を潰せる材料を探している。ビデオを見てみるとわかるのだが、彼らを叩いて「材料を自白させよう」としているのだ。叩かれたら人は本能的に逃げたくなるので、厚生労働省の中に「改心して状況をただしたい」という人がいたしてもとても協力する気にはならないだろう。ましてや民主党系の政党はかつて厚生労働省を「伏魔殿扱い」していたという前科がある。

立憲民主党は「永田町の権力争い」という彼らの村の戦いに夢中であり、実際のガバナンスにはあまり興味がない。多分彼らが政権を取ったら民主党政権時代と同じ過ちを繰り返すのは明らかだが、村人たちはそれに気がつかず「厚生労働省を血祭りにすれば有権者は付いてくる」と信じている。そして誰もついてこないと「騒ぎ方が足りないのでは?」と考えるのだ。

それに追随している「フリージャーナリスト」たちも「記者クラブから排除された」という彼らなりの戦いがある。だから「実際に何が話されているか」ということにあまり関心がない。だから目新しいキーワードに疑惑という言葉をつけてそのままリリースしてしまうのだろう。こうして問題はネットの片隅に追いやられてしまう。

厚生労働省が「紙ベースで情報を集めてきて、それを中央集権的なシステムで処理している」誰の目にも明らかなので、まずこれをなんとかすべきである。そのためには厚生労働省の現場の人たち(つまり官僚ではない)に信頼してもらい情報をもらわなければならない。が、立憲民主党もフリージャーナリストたちも全く信頼醸成には興味がない。

このままでは生産性も上がらない(税金の無駄遣いだ)し、担当者がいなくなったりサーバーが供給されなくなったら国の統計インフラはめちゃくちゃになってしまうだろう。この解決先にはいろいろあるだろうが、例えば分散型のシステムに置き換えるために予算を出すか、それともCOBOLのエンジニアを国で育てる(つまり国で伝統文化的に保護する)というような対応策を今すぐに話しあう必要がある。

厚生労働省は受動攻撃状態にあるが、その裏には「政争に利用され見せしめにされてきた」という恨みがある。政権交代が起こるたびに過去の政権の否定が起きるので、この受動攻撃状態が終わることはないだろう。特に穏やかな村を温存したい人たちにとってこれはほぼ戦乱に近い。

我々の社会は「それぞれの戦いに夢中になるあまり、問題がわかっている人がいてももお互いに協力できない」という深刻な問題を抱えているようだ。村によって争いの構造が違い、それによって問題を組み替えてしまう。だからオリジナルの問題がわからなくなってしまうのである。このため多くの人たちは「自分たちが政治や社会の問題に関わってもどうせ潰されるだけ」として諦めてしまうのだろう。