法の支配と法治主義の対義語は何か?

院内活動家の小西洋之先生が安倍首相にクイズを出して悦に入っていた。安倍首相は法の支配という言葉を使っているがその反対語は何のかと問うたのだ。中継が入っている大切な国会の時間をクイズ番組にして何が楽しいのだろうかと思った。




ところがこれに安倍首相が頓珍漢な答えをしたことでこのクイズに意味が出てきてしまった。安倍首相は、インドなど法の支配を原則にしている国で「力による現状変更」を封じ込めたいと言い出したのである。これはすなわち中国を指している。言葉には出さないが中国を非難するために使っている言葉なのだ。

ちなみにQuoraで聞いたところ「情の支配」の韓国と対比している人がいた。つまり、背景には中国や韓国のような新参者の国がいくら経済的に台頭しようが、それはそれだけのことであって日本のように立派な議会政治の伝統のある国とは比べものにならないのだという侮蔑の意識がある。このようにそもそも使い方が異なっているためあの議論は全く噛み合わないのである。

この後、安倍首相は小西さんが何を言おうとしているのかサッパリわからないと言っていた。多分本当にわからなかったのだろう。この人は自己流の解釈で政治や憲法概念を勝手に歪めてしまうところがある。一方小西さんは大学の授業で習った「法治主義」の講義をそのまま覚えているのだろう。大学では日本型の意思決定システムのようなことは教えないだろうから、なぜ日本で法治主義が広がらないのかという理解をしないまま、Twitterで「自民党の政治家も知らなかった」といってさらに悦に入っていた。

ここでふと疑問に思った。本当に法治主義の反対語は小西さんがいうように「人の支配」なのだろうか。ではその人とは何なのか。この質問に答えるのは実はそれほど簡単ではないようだ。そして、この質問を考えることによって、なぜ国会が「安倍・小西」の劇場型クイズ番組になってしまうのかということがわかってくる。

元々の「法治主義」は権力者の意思決定に透明性を与えるという概念であるらしい。この大陸的な考え方は必ずしも「王権・帝権」を議会と法が縛るという意味にはならない。法治主義と人治主義(人の支配)が対立概念になるわけではなく、形式主義か非形式主義という違いなのである。

法治主義と法の支配は全く別の概念だ。王様が勝手に税金を決めるのを防ぐために「王様の権利を制限して法律に従ってもらおう」としたのが法の支配であり、日本では「憲法が首相を縛る」というような使われ方をしている。護憲派の理論である。だが、この考え方の前提は議会と権力者の対立である。王様に選挙はないが議院内閣制では首相は立法府の代表なので実は首相は国民の側にいる。だから、法によって選ばれた総理大臣が「勝手に支配者になる」ことはない。

議会政治が機能不全を起こしているのは日本の天皇が政治的実権を持たないからである。このため選挙に勝った国民の代表が天皇から監督されず暴走するという極めて不思議な現象が起きる。これは天皇に統制されていたはずの軍隊が勝手に暴走したのに似ている。小西さんは「法治主義」ではなく「法の支配」について言っているので、反対語は人治主義(元の意味では王様が自分の頭の中にしかない体系で国民を支配すること)でではなく独裁ということになる。だが、「小西理論」は多数派工作に失敗した少数派のルサンチマンでしかない。安倍首相は独裁をしているわけではなく自民との多数派が「安倍さんが便利だから」担いでいるだけだからだ。

普通に考えると、クイズを出した人も騒いでいる人も実はなんとなくしかこの単語を理解していないことになる。つまり、どっちもどっちなのである。

以上で「安倍と小西の戦い」の論評は終わりになってしまうのだが、そもそもなぜTwitterの人たちは小西さんを応援するのだろうか。それは日本人が話し合いによって問題が解決できるとは思っていないからである。それどころか一旦対立が表面化するとその対立を喜んで消費するようになる。日本人は集団で運動会をやるのがとても好きな民族なのである。このため一度運動会に陥った議会はそもそもの調整機能を失う。

日本型の暴走についてはすでに散々観察した。誰が意思決定しているかがわからなくなり集団で暴走するのが日本型である。第二次世界大戦は「誰かがリードした」わけではなく、気がついたらそうなっていて誰も止められなかったというのが正しい。議会政治も自民党側は統制が取れているが野党はすでに分裂してしまった。だが、自民党もやがて分裂期を迎えることになる。現在借金で賄われている「ばらまく地位」と「ばらまく金」がやがて尽きてしまうからである。

安倍首相を独裁者に仕立てたい気持ちはわかる。小西さんとそのお友達は「全ては安倍のせい」という安倍暴走=独裁理論がある。彼らはそのゴールに向かってボールを蹴っているのだが、実はそんなゴールはどこにもない。誰も何も決められなくなるというのが日本型の議論の一つの終着点だからである。

こうしたことはすでに第二次世界大戦の前にも起きており劇場型はその兆候だ。次回はその様子を観察したい。