勝ちたい日本人が夢中になる「抜け感」

先日来、劇場型政治を燃え上がらせる日本人の勝ちたい感情について書いている。が街に出て一味違ったキーワードを見つけた。それが「抜け感を出すためのテクニック」である。これは勝ちたい日本人の屈折した感情を表していると思う。そしてこの抜け感によってファッショントレンドそのものが成り立たなくなっているように感じられる。




まずこの「抜け感」という言葉から見て行きたい。頑張っておしゃれをするのは粋ではないと見なされ、リラックスしたさりげなさを演出するのがよいとされている。つまり、洋服が良いのではなく自分がかっこいいから洋服もよく見えるというような見られ方が好まれるのである。

確かにここまでは納得ができる。「ファッションを理解していない」人は服の理解を内面化させず「洋服に着られている」ことが多いと思うからだ。今でもたまに1990年代の洋服の理解をそのまま正解として引きずっている大人を見かける。周りの動向に関心を持っていれば「ああはならないだろうな」と感じることがある。1990年代は、とりあえずトレンドには手を出しておけばなんとかなっていたというのも事実であるが最近では自分らしさが求められる。

自分らしさを出すためにはトレンドに合わせているだけではダメで、それを理解してこなさなければならない。だが、ファッション業界は内面的な理解に行かず外形的にそれを落とし込んでしまった。それが「抜け感テクニック」だ。雑誌をみると「今更聞けない抜け感の出し方」というような不思議な特集が組まれていることもある。そして不思議なことに「気にしていないがおしゃれに見える」ようにするためにみんな必死になってしまう。ここでも日本人は勝ちたいのである。

抜け感はそもそも服を理解して着こなしている人がかっこいいというところから始まっているので、すぐに真似できる正解がない。この傾向は繊研プラスによると2015年ごろから見られるようになったそうだ。繊研プラスは「曖昧で正解がない」と言っているのだが、同時にファッション界では正解になりつつあるのでセールストークとして有効だと言っている。つまり正解がないことがわかっているのだが、それが蔓延しているのでお店側が合わせてしまっていることになる。

こうしてできた抜け感スタイルは「単にだらしない」になりがちだ。手っ取り早く抜け感を出すためには、スタイルがいい人を連れてきて少し抜いてしまう「引き算」をすればいいが、これを普通の人が真似をすると似合わないのは実は当たり前なのである。

この抜け感の裏にある価値観は非常に複雑である。洋服で自分のスタイルを作ろうとすると他者とは違ったことをしなければならない。最初からうまく行くことはないので失敗があるのだが、この失敗が許されないのだろう。みんなと同じであることが求められ失敗も許されないが埋没してはいけない。これではいわゆる「無理ゲー」である。気がついた人から抜けて行くのは当然なのだ。

このため「抜け感が何なのか誰もわからない」という状態が生まれる。にもかかわらずこの言葉はファッション雑誌やアパレルブランドに蔓延していてあたかも正解のように語られる。

この言葉はリベラルのいう「私らしく生きたい」に似ている。正解がない言葉なのにあたかも正解として語られる。それでも自分なりの正解を見つければいいと思うのだが、実際に私らしく生きようとすると「普通」から逸脱してしまう。そしてその逸脱は失敗と見なされて非難の対象になる。さらに、多くの人が「実は他人に勝ちたい」と思っていて、自分なりの生き方やスタイルを見つけたい人たちの足を引っ張る。こうして最終的に行き着くのが「あの人たちよりマシ」という心理状態である。

これまで政治の問題として、リーダーシップを取ろうとする人たちが同僚間の闘争に巻き込まれてやがて不毛な足の引っ張り合いになる様子を観察してきた。行き着いた先は自己否定されたと感じて傷ついた人たちの二極化した匿名のつぶしあいだった。とてもナイーブであり同時に苛烈だ。この背景には何が正解かわからなくなった人たちが自分たちと異なる他者を見つけて叩きたいという動機があるのだろう。

政治はSNSの登場で二極化した<議論>が生まれたが、ファッションのこうした闘争は個人化しており社会的な結びつきを持たない。が、これはマイルドな突出(ファッショントレンド)の破綻なので、ファッションそのものが成り立たなくなってしまっているのである。