全体主義教育・刑罰としての個人・泥状社会

全体主義教育についてのエントリーのページビューがよかった。Quoraの質問にも閲覧者がたくさん集まっているので、学校教育や社会のあり方について息苦しさを感じている日本人は意外と多いのかもしれないと思った。




前回にも書いたように、実際に問題になっているのは全体主義ではなくそのバラバラさなのではないかと思うのでもう少し考えてみたい。これはちょっと癖がある独特のバラバラさである。バラバラなのだが「相手を縛りたい」という気持ちだけはみんなが持っているように思える。砂つぶなのだがベトベトとした砂と言って良いだろう。ベトベトとした砂といえばそれは泥である。日本は泥状社会なのかもしれない。では何がベトついているのだろうか。

考える材料はちょっと断片的である。まず、多くの人が学校に抑圧的なものを感じているというのを出発点にしたい。よくわからないルールとかとにかくお仕着せられている教育課程などというものだ。これが社会に出ても続くので、全体主義に感じられてしまう。会社には誰が決めたかよく分からない昔からのルールがあってみんなの上にべっとりとのしかかっている。だが、この<全体主義>には核がない。つまり、誰が声をあげて「私はおかしいと思う」と言っても絶対に賛同者が出てこない。みんなおかしいことはわかっているのだが、個人が声を上げたというだけでは無視されてしまうのである。

もう一つの断片はワイドショーだ。みんなが見たいものがなくなり、唯一残ったのが有名人のリンチという社会である。視聴率が取れるのは確かなようだが、見てみても何も残らない。正月のめでたい時期を除いて誰かが血祭りにあげられ次々に捨てられてゆくだけなのである。誰が叩いているのかと思っても首謀者は出てこない。司会者は世間が許さないといい、コメンテータに賛同を求める。だが、コメンテータも言われたことに応えているだけで、自分の意見というわけでもなさそうだ。

叩く側に顔がない一方で、叩かれる側には顔がある。芸能人として突出した人には公的人格という刺青が与えられる。このブランドを使ってビジネスもできるのだが、何か間違いを犯すと容赦なく叩かれて文句は言えない。みんながまとまって知りたいものがない社会ではこのリンチだけが唯一の娯楽とされている。ワイドショーは現在のコロッセオなのだ。

もう一つヒントになったものがある。それが「子供の顔を隠した写真を撮影する」という親である。こんなことをする人は見たことがないのだが、Quoraの質問からヒントをもらった。いろいろ考えたのだが、セレブの親を真似しているのだと思う。日本でのセレブは自分が顔を晒して「有名人という刺青」をつけることでビジネスをしている人のことを言う。ママタレともなると子供も商売の道具にしなければならない。が、子供の顔を晒してしまうと特定されていじめられる可能性があるので、子供の顔だけを隠すのだろう。この質問でわからないのは一般人の親は顔出しをしているのかという点だ。おそらく顔出しはしていないのではないだろうか。

実は同じようなことがWEARでも行われてる。WEARはファッションSNSなのだが、アプリで顔を隠すのが流行っている。シールで隠す人もいるのだが、顔をぐちゃぐちゃに潰す人がいる。中には子供を顔出しさせて自分は写らないという親もいるのだ。作品としてのファッションや子供は自慢したいのだが、特定されないために顔を潰しているのを見ると、どうしても個人の尊厳を否定しているように見える。つまり、個性を出したいのにそれを罰しているように見えてしまうのである。

多くの日本人が「個人としてStand outしたいのだが、それをリスクとも感じている」ということがわかる。確かに、ネットで個人情報が特定されると何が起こるかわからない危機管理意識はあるのだろうが、目立つと何をされるとわからないという漠然とした不安感もあるのではないかと思う。

こうした断片的な情報を集めると、どうやら「個人として存在する」ということは日本ではリスク要因なのだということがわかるのだが、どうしてそうなるのだろう。それは、自分もまた個人を攻撃することがあるからではないだろうか。

学校で、個人の名前を出すことがいじめになることがある。たいていの場合SNSなどで本人に知られないように噂話を言い合っているらしいのだが、そもそも名前が出た時点でそれは「刑罰」になる。学校は村なので、個人というのはすなわち「仲間はずれとして追放された」ことを意味するのだ。

最近のネットいじめは「24時間経つと消えてしまう」メッセージなどが利用されるらしい。つまりいじめられている本人は何が書かれてあるかわからないのに「対象とされている」だけでいじめられたと感じそのまま自殺してしまう人もいるのだ。リンクされた記事では「友達が教えてくれて気がついたという人が多い」と言っているが、この友達が本当に親切心で言っているのかは疑わしい。本人が村八分にあっているということがわからないとつまらないと感じている人がいるはずである。つまり刑罰を与えたらそれを知らしめたい。罰を与えられた子が苦しむのがその他大勢の人たちには報酬になるのである。

ここまで考えてくると日本人が考えている個人というのは村に属さない「村八分」の人だということになる。つまり、日本の個人というのはなんらかの目的があって村八分にされているか、特に優れが業績がある人かどちらかのだということになるのだが。それは村が持ち上げるか貶めるかのどちらかであり、本質的には同じことなのである。村にいる人には個人を叩く権利が付随しているということがいえる。そこにいるだけで満足できなくなった村では、村人であるだけではダメで、常に「村人である理由」が必要なのだ。「村を出たら叩かれる」から出て行かないのである。

日本には公共がないので人々は公共のニュースには興味がない。政治や公共は単に自分には関係がないことである。このため日本人の政治感には独特のものがある。質問サイトでいくつか質問してみると特によくわかるのだが、誰も自分に付帯する政治のことは語りたがらない。特に自分が弱者認定される可能性があったり、組織に問題があるというような話題は意識して避けるところがある。が、誰かを叩くための政治についてはみんなが統治者目線で語りたがる。

だが、同時にこれは村人を縛り付けている。つまり自分も個人として発言すれば叩かれる側に回るということである。公共に興味がないので、ルールが環境に合わなくても自分たちで変えることはできない。出たら叩かれると思い込むことで実は自分を村の中に縛り付けている。

こうして泥の中で窒息しそうになっている人たちが感じるのが「全体主義」という言葉の響きによって刺激されるのではないだろうか。だが、実は自分たちが自分たちを縛って溺れさせようとしているということには気がつかない。実は鎖などどこにもない。単にそういうものがあるとみんなが思い込んでいるのだ。