「自分を良く見せたい」というもう一つの麻薬

前回は、ネトウヨ発言を内心の社会化というキーワードで考えてみた。今回は積み残し課題を整理する。それは社会化されない内心を暴走させる善意についてである。




前回は、虐待当事者でない人が虐待問題に首をつっこむことの是非について考えた。東ちづるさんには何の恨みもないのだが、虐待者は取引をしようとしているという仮説は危険だろう。

東さんは「人間は共感的であるべきだ」という立場から飴と鞭を使い分けて取引する虐待者を非難していた。このように取引をする人格を「サイコパス」と呼ばれることがある。助け合いを社会の基礎理念とするリベラルには許し難い「新自由主義的な」人たちである。つまり、東さんは知らず知らずの内にリベラル対抑圧者という構図を作っている。その上で「リベラルを擁護する私」をアピールしていたのだ。

だが、実際は違うのではないかと思う。虐待者は共感概念を持てないと仮説立てすると全く別の可能性が出てくるからだ。ある構図を自動的に当てはめてしまうことで、あるいは救われるはずだった被虐待者が取り返しのつかない傷を負う可能性があるのだが「リベラルな私」に酔ってしまうととてもそんなことには気がつけないだろう。

虐待者に「共感を持つべきですよ」と言っても虐待者は理解しない。が、理解できていないことも理解できないので自分の目に見えているものからなんとかして「共感のようなもの」を想像しようとする。虐待者は慈悲深い自分であるということには価値を置くので「慈悲深い私」を演出するようになるのだ。これは却って怒りを増幅させる。本当の私は慈悲深くないし、相手は依然理解不能だからである。こうして虐待は繰り返される。

これをネトウヨに当てはめてみたい。ネトウヨは何らかの理由で病的に相手をバッシングしたいと考えている。これを正論で諭すのは危険である。なぜならばネトウヨは何らかの理由でリベラルの言っていることが理解できない可能性があるからである。虐待は内にこもる病巣だったが、ネトウヨは外に向かって暴発する。

虐待とネトウヨは攻撃の方向性は異なるのだが共通点もある。自分と違う他者を予測不能な異物と捉えているのである。子供や動物は内心が想像できない人にとってとても恐ろしい存在である。例えるなら自分の手が勝手に動くようなものなのだ。一方でネトウヨは自分たちで勝手に秩序世界を作っており、それに逆らうものの存在を許容しない。例えば女は黙ってお茶を出し食事を作るべきであるのに「いきなり怒り出す」というのは彼らにとって恐怖なのである。

つまりネトウヨという人たちは、韓国人にも民族の誇りがあり、アイヌ人も自分たちの年間行事を通して心の底から「ああ、アイヌの伝統を引き継いでよかった」と思うことがあり、女性が不自由な選択を迫られることなく人生を享受したいのだということは基本的に想像できない。彼らは自分たちの社会を構成する書き割りのような存在であり、それが勝手に動き出してもらっては困るのである。彼らだけでなく世の中の他人は全て自分の人生の書き割りなのである。

つまり虐待は個人的な予測不能性に対する防御反応である可能性があるのに対して、ネトウヨという病は組織的・社会的な防御反応であると仮説できる。だが、柔軟に相手の気持ちを思いやる共感というものが持てている人たちはそれが想像できない。その想像できない人たちが「何でそんなこともできないの?」と詰め寄ってきた時に予測もつかないような反応が返ってくるということである。

そもそもネトウヨが追い詰められたのは2009年に自民党が政権を追い落とされたからである。蓮舫議員の「二位じゃダメなんですか」に代表されるようにこれは善意による粛清だった。彼らは社会的に不正解と見なされて迫害されたという自意識があるのだろうし、安倍首相が「悪夢の出来事」というように実際にそのような動きも多かった。これが補強され「さらに厄介になって戻ってきた」のが安倍政権だ。ある意味社会的正解に対する耐性をつけてきた人たちなのではないだろうか。

アレルギーを根性で克服できないのと同じように虐待のある人間関係は基本的に修復できない。だから虐待は恐ろしいのだが、そんなことをしみじみと語っているような場合ではない。逃げないと社会生活が送れなくなる可能性すらある。同じようにネトウヨも官僚の秩序を破壊しつつある。蔓延する嘘を何とか誤魔化せていた時代は過去のものとなり、外国に出かけた厚生労働省の課長がヘイト発言で逮捕されたり、匿名でヘイトの書き込みをしていた年金事務所の所長が更迭されたりしている。もう彼らは何が正しいかわからなくなり混乱が始まっているのだろう。

我々はわからないならわからないなりにこの状況を変えなければならない。そして、その時に私たちが持っている正解を彼らに押し付けるべきではない。そんなことをしても何の役にも立たないし却って反発心を強める恐れがある。最優先しなければならないのは問題の解決であり病根の粛清ではない。

こういう文章を書いていて私にも「自分を良く見せたい」という気持ちはある。それもある種病のようなもので完全に除去することはおそらくできないだろう。だが、自分にもそういう気持ちがあるのだということは自覚しておくべきだろうと思う。

いずれにせよ「相手が自分の言うとおりにならない」ということが多くの問題を引き起こしているようだ。忙しい人たちは、余裕のある社会なら笑って許せていたことが許容できなくなってきているのかもしれない。昨日も「子供を虐待して殺した」というニュースを見た。こうした苛立ちを社会と共有することができず内側に抱えているという人は意外と多いのではないだろうか。