日本の護憲派は失敗したんだなと思ったという話

社会化されない内心について調べている。ネトウヨという極端な社会現象を見ながらいろいろ考えた。だが、Quoraでそれとは全く異なるものを見た。憲法なんか守っている場合じゃないというのである。




憲法の平和主義精神などというものは日本人には贅沢だと考える人が現れているということである。護憲派は負けたんだなと思った。

この短い議論は「日本が中国や韓国(原文では伏字になっている)に抗議ばかりしているが実効性がない」という質問で始まった。最初にこの質問を目にした時点では2つ「だから憲法を改正すべきなのだ」という回答がついていた。つまり軍事力がないからナメられるのだと考えていた人だけが回答をつけていたのだ。

そこに「国連憲章」について書いた。現在の国連憲章は問題解決のための単独軍事行動を認めていない。連合国(国連のことで具体的には安全保障理事会だ)がまとめて面倒をみるから個別にぐちゃぐちゃやるなと言っている。そもそもそんな必要があるかが疑問なのだが、いずれにせよ日本が憲法を改正して自衛隊を軍隊にしたところで中国や韓国とことを構えることはできない。

すると質問者から「憲法というのは社会情勢が安定している時の約束事」という返事が返ってきた。一瞬頭の中が真っ白になった。今は自分の身に危険が降りかかってきているから「警察」もあてにならないと続いていた。これを見たとき大げさでなく戦慄が走った。この人は憲法というのは贅沢品であって守る余裕がある時だけ守ればいいと言っている。めちゃくちゃなのだが、安倍政権下の日本では必ずしも笑っていられる話ではなさそうだ。

この人は「憲法は警察である国連が機能しているという前提で書かれているのかもしれない」が「国連は機能していない」のだから「憲法なんか守っている場合じゃない」と言っている。そして、確かに国連安全保障理事会が機能していないのは事実かもしれない。欧米社会とロシア・中国は牽制関係にあり、安全保障理事会は駆け引きの場に使われることが多い。そして、それをバックアップしている意見というのは「喧嘩しないと決めている人はナメられるよね」という居酒屋的政治議論だ。新橋のガード下では「一発カマしてやれば韓国も黙るだろう」と続くのかもしれない。

問題なのはこの人が「匿名で無知なネトウヨ」ではないという点である。まず名であって役職名も提示した上で議論に参加しており、情報も集めている。言い方も丁寧で「ちょっと過激に聞こえる意見だったかもしれない」と自省もしている。極めて落ち着いた冷静な理解なのだ。が、その結論は「憲法なんか守っている場合ではない」というものである。

少し考えてみたところ、憲法を粗末に扱っていることが問題なのではないということがわかった。その危機意識が問題なのだ。例えば、ナチスドイツは共産党が我々の暮らしをめちゃくちゃにするといって国会を「民主的な手段」で奪取した。そして、その範囲をユダヤ人に広げて数百万人を殺害した。戦争が終わって「なぜドイツ人はあんな残虐なことをしてしまったのだろう」と我に返ったとき人々の生活はめちゃくちゃになっていたのである。恐怖は民主主義を機能不全に陥れる。トランプ大統領もメキシコの壁の監視カメラ映像をTwitterに投稿し「二期目を務められなければ彼らがやってくるぞ」とほのめかす。

この意見がバランスを欠いていることはもちろん明らかである。北朝鮮は核爆弾を手に入れたので日本が核攻撃される可能性がある。アメリカは巻き込まれるのを恐れて北朝鮮の核攻撃に介入しないかもしれない。つまり現実的な脅威としてはありもしない中国や韓国の攻撃に備えるよりも「日本独自核武装論」の方が優先度が高い。

そう考えてみると、日米同盟という既存のものには過度な信頼が置かれており、なおかつ新しく出てきた変化に対しても過度に反応しているのだろうということがわかってくる。実は変化に対する不安なのだ。ただ、不確実性を回避する傾向が強い日本人がこの「戦後に構築された日米体制の揺らぎ」に心理的にどこまで耐えられるのだろうかと考えるといささか不安な心持ちになる。

ここでもっともやってはいけないことは非難である。これまでの考察では非難は人々を心を頑なにするだけで態度変容には結びつきそうにないということがわかった。かといってほのめかしも効きそうにない。この短いやり取りですでに彼の内心は「ああ、これは外向けに言ってはまずいことなんだな」として抑制されはじめている。日本では平和主義は正義であり正解だ。ちょっとほのめかしただけでも正解でない個人の内心は抑制されてしまうのである。

かといって、彼の内心が変わったわけでもないだろう。つまり「これはヤバイ状況なのだがみんなわかってくれない」という内心を抱えたままになる人が実は大勢いる可能性があるということである。そしてわかってもらえないのは「平和主義という正義を使ってマウンティングする嫌らしいリベラル」のせいだということになってしまうのだ。

これは手っ取り早く支持を集めたい政治家にとっては「宝の山」である。「あの人があなたの財布を狙っていますから私が預かってあげますよ」と言えばいいからである。国民主権などと言ってもそれは脆いもので、冷静でない人の手から権力を奪い去ることなど実に簡単なのだ。

前回は、素朴な内心をTwitterでつぶやいた人たちが「正解でマウンティングしたい」リベラルにバカにされて恨みを募らせてゆくというストーリを妄想した。確かにこういうことはありそうである。

だが、実際はそれほど単純ではないということがわかる。穏やかに「それは平和主義に反する」と言ってみても一旦芽生えた「心配事」が消えることはない。心配事は見えたものだけから構成されており、例えば今回の北朝鮮の核保有のように見えないものは見逃されている。さらに説得しようとすると内心が抑圧されてゆき蓄積されると権力が欲しい人たちに発掘されてしまうのだ。

今一番知りたいのはこうした漠然とした不安とか恐怖心がどのくらい広がっているのかという点なのだが、現実に先導政治家によって引き出されるまでは見えてこないのかもしれない。そして、それが見えたときにはもうあるいは手遅れになっているのかもなどと思った。