豊洲市場の殺人エレベーター事件

豊洲市場でターレに乗った男性がエレベータに挟まれるという事故が起きた。このニュースについて取り上げるのだが、取り上げるのは豊洲の問題そのものではない。日本人の問題解決能力についてである。日本もついに「アメリカ型」になったのかと思ったのだ。




この事件を最初に知ったのはTwitterだった。が、Yahooニュースにも出ていなかったのでフェイクではないかと思った。やがて本当だったということがわかり、Twitterでは程なくして大騒ぎになった。毎日新聞は発見から5時間後に死亡が確認されたと書いているので最初のつぶやきはややフライング気味ということになるのかもしれない。

Twitterには豊洲コミュニティができており、それ以上に意見が広がることがない。そこでQuoraで世論に訴えられるような環境を作ってみようと思った。が、掲出するときにすでに「でも当事者たちはコメントを書かないだろうな」と思った。理由はよくわからないがこういう洞察はなぜか当たる。

程なくして「豊洲の問題ではないのでは?」というコメントがついた。これもQuoraではよくあることだ。質問は「Twitter世論」を受けて質問は小池都知事を非難する内容になっている。するとそれを察知した人がほぼ本能的にバランスをとって「大したことはないのでは?」と収めようとする。これが今の日本社会だである。

小池さんではなく安倍晋三さんでも同じことが起こるし、例えば過剰労働やレイプ事件の問題でも同じ反応が見られる。なぜか日本人男性はこうした騒ぎが起きると「それは問題ではない」と言いたがる。本能的に集団が揺れることを嫌うのだろう。

その一方で、Twitter組は閲覧には来るが(外部からの閲覧者は増えている)書き込みはしない。これもあらかじめわかっているのだが理由がわからない。Twitterは集団の中で「そうだそうだ!」という群衆になれるのだが、Quoraだと最初の一人になってしまうからなのかもしれない。これも本能的な反応だ。

ところが事件はどんどん悲劇的な方向に展開してゆく。エレベータにフェイルセーフ装置がついていなかったことがわかってきた。これはエレベータにはあって当たり前の装置なのだが、闘争状態になっているために「これすら社会に訴えなければ振り向いてもらえない」というマインドセットになっているのだろう。つまり自分たちから「当たり前」のラインを下げてしまっていることになる。そしてそれを見た周りの人たちは「そんなの騒ぎすぎだろう」といってそれを反射的に打ち消してしまうのだ。中には親切心からか「監視を強めては」などという人も出てきた。

だが、区役所に設置しているエレベータがお年寄りを「食った」らどんなことが起こるか想像してみればいい。業務用であろうと一般用であろうとフェイルセーフ装置があるのは当たり前のことで「監視員を置こう」などという人はいない。そもそも騒ぎ立てるような問題ではないはずなのだ。

この問題はすでに「ヒヤリハット」な事故が相次いでいることがわかっており未然に防止することができてたはずの事故でもある。だが、この対応も極めてずさんだった。貼り紙対応だったそうだ。

しかし、共同通信社は「取材して初めてわかった」と悠長な書き方をしている。知っていたが一生懸命に言い立てる人がいなかったせいで、マスコミは知っていても伝えてこなかったということである。この事故が起きてからも市場は「ルールを守らなかった人が悪い」というような発表をしているようだ。よくある自己責任論である。

東京都の運営がずさんだとは思うのだが、我慢して引いてみてみると、全体的に「集団思考状態」が起きていることがわかる。誰かが状況を整理してなんとかしてくれるはずだとみんなが信じている。だが、誰もその勇気ある一人にはならないという状況である。

Twitter人たちは被害者なので「なぜ外に出て世間に訴えかけないのか?」と問い詰めるわけにもいかないし、当事者ではないのでどっちかに肩入れして騒ぐこともはばかられる。できるのは訴えられる場所を作ることだけである。

それでもやはり重大事故が起きてから責任のなすりつけあいをするまで問題は解決できないんだなあと思う。過労死の問題も女性のレイプの問題も同じような経緯をたどって結局犯人探しだけをして終わりになってしまうことが多い。問題解決ができないのは誰も問題解決に向けて動き出さないからだ。

いろいろ考えたのだが、結局のところ、当事者たちが理路整然としかも継続的に問題を他人に説明できるようにならなければならない社会になったんだなあと思った。これが、20年前のアメリカ社会とそっくりなのである。

アメリカも地域コミュニティが崩れて自分のことに忙しく誰も助けてくれなくなった社会である。なので、問題を察知した人は継続的に問題を訴えて行かなければならない。このことがよくわかるのが2000年のエリン・ブロコビッチという映画だ。法律を正式に学んだことがない女性が公害問題で訴訟を起こすという筋だが、映画の中では最初問題を取り合ってもらえないというシーンが出てくる。

アメリカ社会の状況を知ったうえでこの映画を見て「アメリカは大変だなあ」などと思っていたのだが、いつの間にか日本もそんな社会になりつつあるようだ。ただ、集団の中で「丸く収める」のを良しとしていた日本人が最初の一歩を踏み出すのはかなり大変なんだろうなあとも思う。アメリカはまだ助け合いの精神がある共和国的な風土があるのだが、日本人はともするとお上の側に立って他人を裁きたがる人が大勢いる。

豊洲のこの事件は人が亡くなっても「エレベータでは死ぬことがあるので気をつけましょうね」で終わってしまうかもしれない。だが、それを見て「我慢しろ」と言っている人たちも実は命の危険がある設計のよくない設備で溢れた職場で働いているのかもしれない。声をあげたり他人を助けたりしないことでどんどん自分たちの環境を貧しいものにしてしまうのである。