道徳という名の化け物が……

道徳という名の化け物が合理的な政治を食い尽くそうとしている……今日はこのような大げさなことを考えたい。




考える直接にきっかけになったのは東洋経済の大津事故で見えたマスコミのミスと人々の悪意という記事だ。どちらかが正義でどちらかが悪という二項対立的な構図が問題の本質を見えにくくしていると指摘している。この問題は「かわいそうな保育園の先生」と「無慈悲なマスコミ」という単純な形で捉えられ、それに芸能人が追随しているというのだ。

最近のワイドショーはこの二項対立を煽っているような様子もあり、自業自得なのではないかと思える。

例えば、最近話題になっている「小室圭問題」では小室さんへの嫉妬心が道徳感情という仮面をつけて暴れまわっている。小室さんは私人なのだが皇族と結婚しようとしているので「準公人扱い」して知る権利を振りかざしているのである。

しかしその背景にあるのは小室さんはずるいという嫉妬感情である。「結婚したら一時金が支払われる」とか「女性宮家ができれば小室さんにも公費が支払われるから」という理由で「それはずるいのでは?」という気持ちを煽ってもいる。結局、商売のために道徳感情を煽っていることになりポピュリストの政治家よりタチが悪い。

背景にあるのは取材費不足だろう。無料のコンテンツで構成しなければならないのだが、訴えられる可能性があったり、関係者筋から文句を言って来られる「コンプライアンス上の」リスクは困る。つまり「相手を見て」喧嘩を売っている。だが、言い返してこない、言い返せないとわかって喧嘩を売ることは日本語では普通「イジメ」という。つまり知る権利は元々の意味を失い単なるイジメの道具になっているのだ。

例えば、今回国会で扱われていた「幼保無償化」の話は主婦に関係のある話題であるにもかかわらず、ワイドショーで全く議論されることはなかった。唯一議論されたのは消費税が先送りになれば幼保無償化がなくなり損をするのでは?という懸念だけである。

道徳は政治が新しい権利や多様な行き方を認めないための言い訳にも使われる。新しい価値観が理解できない人も「道徳」という言葉を持ち出させば簡単に正当化の議論が作れてしまうからだ。少し前に聞いていたLGBT問題について回答があった。人権というのは共産主義よりタチが悪い道徳破壊・家庭破壊だと言っている。Twitterでこれを発信すると高い確率で炎上するだろうが、この人は実名でコメントしており、決して悪意からの言葉ではないのだろう。言葉に出しては言わないがそう思っている人は多いに違いない。

このところ、民主主義の原理が単純な道徳に置き換えられて行くというようなことを考えているのだが、社会が複雑になり利害関係がよくわからなくなると、手近にある道徳を使って「良い」と「悪い」に分けるというようなことが行われるようになるらしい。変化を認めないというのはまだかわいいい方だが、中には道徳心を用いて他人を裁いたり貶める人たちが出てくる。そしてそれが「エンターティンメント」にまで持ち上げられてしまうのである。

こうした症状が出てくると、社会は絶えず敵を要求するようになる。敵を攻撃している時だけかりそめの一体感が得られるからである。

知る権利を満たしたい気持ちが安易な方向に流れると却って知る権利が奪われるということが起こる。

ところがここから「良い知る権利」と「悪い知る権利」を分割することはできないのではないかと思う。それは我々が「良い判断力」と「悪い判断力」を併せ持っているからである。

このブログはかつて「村意識を残した日本人」というようなテーマをよく書いていた。既得権を持った人たちは村を維持し、そうでない人たちは路上に放り出されるというような筋立てだった。当時は「ここからどう社会規範を再構成してゆくのだろうか」ということを考えていたような気がする。しかし、気がつけば全く違ったところに出てきてしまったようだ。人々は現実の縛りから自由になり顔を隠した匿名の道徳意識だけが化け物のように暴れまわっている。

今見ているのは、現実に即した社会規範が失われ、かつてあった「他人から良い人と思われたい」という気持ちだけが暴走ているという世界である。そして「民主的な」政治議論をやればやるほど化け物に餌を与えることになる。

集団化して暴走する民主的な道徳が合理的思考を奪ってゆくプロセスにはまだ輪郭がつかめないところが多い。すぐにはわからないだろうが、これからも少しづつ考えて行きたい。