丸山穂高議員の「戦争をしないとどうしようもないくないか」は暴言なのか?

丸山穂高議員の「戦争をしないと北方領土は返ってこないのでは?」発言が炎上している。でもこれは本当に暴言として処理していい発言なのだろうか?




ロシアと日本のあいだでは歴史認識のずれがある。ロシアはソ連が南クリルを取ったのは戦争による正当な結果であると言っており、日本はそれを認めていない。ラブロフ氏「北方領土、大戦の結果」強調 日露隔たり鮮明 外相会談という毎日新聞の記事がそれを伝えている。

戦争の結果領土が確定したのなら戦争をしないと返ってこない。これ自体は論理的に整合性が取れている。そして丸山発言はロシア側のポジションを暗に受け入れている。戦争で取られたという前提があるから戦争で取り戻そうと言っているのである。今回の議論は議員を辞める辞めないという問題に終始してるおり、この論点がすっぽりと抜け落ちてしまった。それは「あの戦争」がある種「道徳に基づく思考停止ワード」になってしまっているからである。

もちろん、日本は戦争ができない。心理的に抵抗がある戦争被害者が大勢おり、憲法で領土紛争解決のための戦争を放棄している。さらに、国連も戦争を認めていない。日本が戦争をして北方領土を取り返すためには憲法を改正し国連から抜けなければならないし、そのためには日本の領域から米軍を追い出さなければならない。丸山議員が個人としてそのようなイデオロギーを持っているとしたら共産党よりも過激なのだが、そのことに丸山さんは今まで気がつかなかった。なぜならば思考停止ワードは表沙汰にできないからだ。日本にはこういう「野生の馬のような危険思想」を内側に持っている人が大勢いる。

こういう言葉を飼いならすには一度外に出してみるしかない。それを批判的に見ることではじめて他者の評価や客観的な情報を集めることができる。丸山さんの件は日本にその言論の素地がないということをみごとに意味している。集団としての日本人は発言を冷静に処理できないのだ。

維新の限界はそこにある。彼らはただ機会に乗って勝ちたいだけなので、戦後日本の根幹にある「あの戦争は何だったのか」という点を考えたくない。つまり彼らには国家観は作れない。

過激であるからといって「そういう考え方をしてはいけない」ということにはならないし、日本側のポジションが実は違っていると指摘することも政治的にはあってよい。ただ、政治家はオプションを検討するだけではダメで、その先「どう実現するか」という道筋も提供しなければならないだろう。その意味では丸山さんは議員になってはいけない人だったのかもしれない。

だが、政治は合理性だけでは語れない。

まず、現在この問題は協議中なので日本側の交渉に悪影響を与える。ロシアはわかっていてもこの問題を利用して「日本側の態度に懸念がある」と言えてしまう。実際にそういう発言がロシア側から出ているようだし、ビザなし交流の中止を提案されても日本政府と国会は文句が言えなくなってしまった。

次に、関係者たちはうすうす戦争によって北方領土が取られたということはわかっている。それでも故郷を追い出された人たちのことを慮ってロシアとの関係を継続しているわけである。ビザなし交流は苦渋の決断だ。そんなことをしていて北方領土が返ってくる見込みはないにせよ、それでもそこに一縷の望みを託したいという気持ちは尊重されるべきだろう。

そこで問題になってくるのが丸山さんの立ち位置である。実はこの方は衆議院の沖縄・北海道問題の特別委員会の委員さんなのである。つまり、国民の代表として北方領土問題について取り扱っている人が「こんなチマチマしたことやってても領土は返ってこないですよね」と噛み付いて、実現可能性のない戦争を仄めかしたということになる。そして不快さをにじませる団長を無視して言葉を重ねたのだ。

普段なら「謝罪してやめるべきだ」と書いて終わりにするところなのだが、最近道徳について考えたばかりなのでちょっと違った感想を持った。

維新が恐れているのは「道徳的判断」が選挙に影響するかということであろう。それは裏返すと「道徳」を使って人々を動かそうとしているからである。だが、道徳で問題を<切断処理>してしまうと、維新が「こんな活動無駄だよね」と思っていた人をなぜ沖北委員にしたのかわからなくなる。そもそも本当に無駄なら活動の中止を「委員として」提言すべきだった。つまり最初から国家観に関わる問題は彼らにとってどうでもいい問題だったのだろう。

丸山さんは維新から除名されても議員は続けるのではないかと思う。維新も除名したとして追求を受けずに済むし、ほとぼりが冷めたらまた彼を会派に入れるかもしれない。道徳的追求は核を持たないのでうやむやな決着を排除できない。

故郷を追い出された人たちの気持ちを踏みにじる発言は許容されるべきではない。だからこれは暴言である。その発言は役職者としてのものであり冷静に議論されるべきであるといえる。しかし、それでも道徳で切断してはいけないはずの発言だったのではないだろうか。