日本人はなぜ家族の間の殺し合いを止められないのか

本日は日本ではなぜ家族間での殺し合いが多いのかということを考える。殺人事件全体が減っていることもあり割合として増えてしまっているそうである。日本は問題を個人で処理する国になっていて、自殺の割合も比較的高い。




現在では半数を超える55%が親族間殺人だという統計があり、高齢者では7割を超えているそうで「現代版姥捨山」という感じまでする。家族間の問題を社会に迷惑をかけずに「家族で処理」する国なのだ。家族が迷惑をかければ自分も非難されかねない。自分も社会をそうやって叩いてきたのだからそれを拒否することはできない。その意味で、日本人は過去の所業のゆえに、社会に対してとても強い恐怖心を持っている。

だが、家族が密室化する理由はそれだけでもなさそうである。日本人には日本人独特の幸福感がある。「日本人の幸せは運に左右される」という話を読んだ。日本人が幸せであると感じるためには自分だけでなく「自分がコントールできない他者」が重要だというのである。言い換えれば同居する他者によって自分の幸福感が大きく揺れてしまうのだ。

米国型のモデルAでは、個人が家族や友人、同僚といった他者とは独立した存在として、ひとりで感情を経験する。対して、日本型のモデルBでは、自己の境界が他者のそれとなかば融解しており、ある感情を他者とともに経験する様子が描かれている。内田らの研究結果は、厳密な科学調査から、文化の違いに応じて、幸福ばかりか負の感情でも受容形態が異なることを明らかにしている。

「わたし」のウェルビーイングから、「わたしたち」のウェルビーイングへ:ドミニク・チェン

日本人は集団主義だと言われることがある。集団主義という文化尺度は「安全保障の単位」として集団にどう依存するのかという意味で使われることが多い。このため「集団主義」という言葉を使う同士で話がかみ合わないことがある。日本型の集団主義とはむしろ「周囲との感情的な結びつき・癒着」である。

日本人はどちらかといえば周囲との人間関係を気にする人が多い。他人が自分をどう見ているのかということを気にするし、他人に対しても色々と言いたくなる。このような村の縛りあいを「集団」ということがあるのだ。これは必ずしもリーダーに統率された序列のある結びつきではない。

家庭は最も小さな村になっていて、しかも周囲から孤立している。家族の問題が隠蔽され追い詰められてしまうのはそのためである。これが学校になると「学校の人間関係が全て」になりいじめやいじめ自殺につながる。周囲との関係=その人の人生の価値になってしまう傾向が強い可能性が高い。

これについてQuoraでも聞いてみたのだがあまり要領を得た答えが返ってこなかった。これに回答を書いたのは海外経験のある日本人と韓国系の名前の人だけだった。つまり、ほどんどの日本人はこの状態そのものに違和感を感じないのだろう。このウェルビーイングのサイトにある図表もアメリカ人を知っているから「ああそうだよね」と思えるが、そうでなければ何のことだかわからないのかもしれない。このため日本人は自らの問題が分析できない。

ところが状態だけは一人歩きしている。例えば介護をしている子供が親を殺したり、しつけと称して親が子供を刺したり、ひきこもりで暴力を振るう子供が将来世間に害を与えるかもと勝手に考えて殺してしまったりというようなことが起きている。これは「家族は幸せの象徴であるべきだ」という日本型のイデオロギーとぶつかる。そこで様々な議論が起こるのだが、焦点が結ばれることは決してない。

この「恐ろしや 殺人の半分は「家族間」その根本原因」という記事は、この事実を福祉を公的に担うべきだという主張のために使っている。なので、それがなぜ起こるのかということについての考察はない。国が福祉を担えば自然に解決すると思われているのだろう。

いまや殺人事件の5割超 「親族殺し」なぜ増加している?という記事は「我が子に対しても、腫れ物に触るように接しなくてはならない時代か。」と嘆いて終わっている。確かに居酒屋ではこうした議論が行われているかもしれない。

こうなると「日本人は家族のありがたみを忘れているから」という精神論に持ち込まれかねない。父親を尊敬するようになればとか、戦前の価値観に戻れば「全ては丸く収まる」という話になってしまうのだろう。だが、いまや全ての男性が品格を保てる十分な給料を得られる仕事はないし、女性を従属物のように扱う社会制度は国際的に容認されないだろう。

日本人の幸不幸の実感が「個人単位」になれば、同居している人たちが奇妙な一体感をもとに「不幸共同体」を作ってともに堕ちてゆくということは少なくなるはずだ。だが、日本人にはそれができない。なぜならば日本人の心理モデル以外のモデルを知らないからだ。ゆえにある人は周囲を巻き込んで拡大自殺を図り、別の人はそのモデルがそのまま自分たちに当てはまるだろうと怯えて息子を殺し、別の人は抱えている親を「世間様の迷惑にならないように」と殺してしまうのである。