承認欲求が個人で病化するアメリカと集団で病化する日本

承認欲求という言葉がある。英語ではdesire for recognitionというそうだ。Quoraを見ていて承認欲求が「日本では否定的にしか使われていない」ことに気がついた。違和感程度のものなのだが、これについて聞いてみた




これまで村落や利益集団について観察し、次に日本人が話し合いできないという様子を見てきた。他人と話し合えないため日本人は村落(ずいぶん理想化されてしまっているとは思うが)のような居心地の良い環境を再構築できず、今の不安な社会があるのだということがわかってきた。

次に気になるのはなぜ日本人がお互いの違いを尊重しあえないのかという点である。そんなことを考えながらSNSを見ていて日本人が他人の自己顕示や承認欲求をかなりネガティブに捉えているのだなということがわかった。

アメリカで自己実現欲求が肯定的に語られるのは「個人が成長すべきだ」とされる個人競争社会だからだろう。社会的に自己実現欲求を肯定的に向かわせてそれを社会全体の成長につなげようという考え方がある。だが、日本ではそれが育たなかったので社会の成長はとまり日本人は自己肯定感の欠如に悩むようになった。子供の自己肯定感の低さはかなり深刻なレベルにある。

回答がいくつか寄せられたのだが、承認欲求という言葉が「SNSでの行き過ぎた行為」と結びつけられていることに驚いた。SNSでバイトテロをするのが承認欲求だというのである。正直どうしてこういう結びつきになるのかがわからなかった。インスタグラムに出てくるような「無害な承認欲求」は無視されてしまいこうした病的なものだけを心に止める人がいるのだろうなということだけはわかった。

ただ、自己承認欲求が否定的に取らられるのは日本だけの現象でもないようである。アメリカでも承認欲求がネガティブに捉えられるということがあるそうだ。英語にもValidation from othersという言い方があるという。

リースマンの「孤独の群衆」に他人志向という概念がある。第二次世界大戦後にアメリカの社会が流動化したとき、これまでの社会規範に沿って生きられなくなった人が「陥った」とされる状態である。コトバンクに解説が収録されている。この結果、アメリカでは自分の価値観をしっかり持って「他人に流されないようにする」のが良しとされるようになった。

今でもアメリカには自分の軸が持てない人が大勢いるのだろう。個人競争社会のアメリカではこうした人々は許容されない。他人依存の承認欲求がValidation from othersと呼ばれるのではないかと思った。

中には「動物愛護」という大義に頼る人もいる。これが行き過ぎると「他人の迷惑行為が病的に気になる」人たちを生み出す。例えばビーガンは肉食主義者を攻撃したり、捕鯨国を攻撃したりする。個人社会で自己顕示欲求が病化し攻撃性を帯びたのが彼らなのだろう。

そのように考えると、バイトテロが日本流の歪んだ自己承認欲求なのだということがわかる。こちらは攻撃が集団化している。

バイトテロの映像を仲間内で自慢すれば「あいつは度胸があるやつだ」ということにはなるかもしれない。そう考えると「外からは危険視されるが中では度胸が認められる」という集団の承認欲求ということになる。そしてそれは彼らなりの「支配に対する抵抗の形」なのだろう。世の中に空気のような規範があり「それに抵抗してみせる」ことで「まだ飲み込まれていないのだぞ」と示しているということだ。

こうした集団の自己顕示欲求は「空気の奴隷」に攻撃されやすい。最近では「自分に合った靴が履きたい#KuToo」ことすら社会運動になっている。あれは空気の奴隷の解放運動であり、空気に従属しつづけたい人たちから見れば「挑戦されているように」みえるのかもしれない。だから、#KuToo運動に否定的な見方をする人が意外と多い。

我々は「自己の成長による高次の承認欲求(マズロー)」というようなモデルを採用してしまっているので「自己承認欲求」をついつい高次の考えてしまう。しかし空気に飲み込まれそうな個人の抵抗運動も自己承認欲求になるのだろう。そして、空気の奴隷であることを選択した人たちからの攻撃を受けるのだ。そこにあるのは「彼らだけが解放されるのはずるい」という感覚なのかもしれない。

ではなぜ空気の奴隷からの解放運動は人々に反対されるのだろうか。

#KuToo運動で冠婚葬祭業のマネージャーがハイヒールを強要するのは「理不尽なルールを設定する側」に立つことで支配者は誰かを示すためである。こうした理不尽なマネージメント慣行は第二次世界大戦頃にはすでにあったのではないか。

軍隊に入った軍曹レベルの人たちが「平和ならば話すらさせてもらえなかった」ような高学歴の二等兵・一等兵に理不尽ないじめを行うのも理不尽による支配である。軍曹たちは理不尽な欲求を突きつけることで「誰が命令する側なのか」を顕示する。これが戦後の学校教育に導入され体育会のしごきや意味のない拘束につながった。社会経験に乏しく学校しか知らない人たちが行える唯一のコーチングが「理不尽による支配」だったのだ。

こうした理不尽さに従属し「従わせる側」に回ることで、我々は集団を通じた歪んだ自己実現欲求を満たすことができ社会から承認されたような気分になる。これは集団的に病化した自己承認欲求だが、意外と社会から肯定的な見方をされることがある。体罰容認論が未だになくならないのがその証拠である。

体罰も健康を損なう靴が肯定される。よく考えてみるとかなりおかしな社会を我々は生き餌いる。

ようやく村から解放された日本人は、空気という誰が作ったのかもわからない規範にがんじがらめにされ、あるいは進んで捕縛され、お互いを縛りあうようになった。こうした状態で「健全な個人の自己承認欲求」など育つはずはない。自己承認欲求は社会を発展させる起爆剤にもなれば、我々を縛る見えない縄にもなるということだろうか。

自由を諦めた方が楽な社会では「承認欲求は人を苦しめるからなくしたい」という切実な質問が生まれ、それを肯定する回答がつく。お互いが認め合うところから始めれば自己実現欲求を通じて建設的な社会が作られ、理不尽さで縛り合えば「いっそ奴隷になった方が楽」な社会が作られるということだ。

一応の整理が終わったので「インスタで自己実現してもいいですか?」という質問をしてみたが答えがつかなかった。いたって真面目な質問だったのだが、ふざけていると思われたのかもしれない。こうした自己実現はチャラチャラした芸能人に憧れる幼稚な思考であって決して真面目に捉えられるべきではないと考えられているのではないだろうか。