我々は無数のグレーをなくし全てを漂白しようとしているのではないか

先日は裏の世界だった芸能界が、実業の支援(スポンサーシップ)を受けることで「きれいに」ならざるをえなくなっていった様子を見た。社会の漂白化と言って良い。だがこれは、実業が縮小すると漂白剤が切れて本来の黒い部分が見えてしまった。




アメトーーク!のスポンサーが次々と降りたということだが、思い入れのある番組であればそんなことはなかったはずで「枠で買わせる」という電通方式が崩壊しかけていることを意味しているのかもしれない。枠が崩壊すればスポンサーに思い入れのない夜のバラエティ番組は作れなくなり放送休止になるか社会正義を振りかざす情報番組に切り替わってしまうだろう。だが、スポンサーに思い入れのある番組というと「何か教養的で押し付けがましいものが多い」。世界遺産を眺めたり各地の鉄道旅行を楽しむという番組があっても良いが、どこを切っても同じようでとてもつまらない。

背景には前近代的な「契約書のない」社会もあった。つまり、根幹の部分では裏社会とそれほど変わらない契約体系になっていたのだ。これは吉本興業の出自と関係がある。

今回は、この契約のない裏経済が必ずしも「いけないことなのか」ということについて考えたい。例えばおれおれ詐欺はいけないことである。麻薬の取引もやってはいけない。では、芸能に裏経済的な要素があるということは、芸能も同じようにいけない仕事だということなのだろうか。

芸能裏経済は、表の世界に出られないような人たちの生活の支えになっていた。芸能はセーフティネットがない社会では生活保護的な側面を持っていた。

落語の徒弟制度はその典型だ。立川志らくが弟子を降格させたことは「生活の糧を奪うひどい行為」なのだが、芸能界が表の世界ではない以上許容される隙間がある。立川志らくが伝統に基づいて好きに食わせているのだから「煮て食おうが焼いて食おうが」ということになる。どちらも契約とは無縁な世界だ。

それよりもちょっと新しいのが多分たけし軍団だろう。どうにもならないような人たちが集まるような場所になっていて、ビートたけしが稼いだ金で彼らを「食べさせていた」。これはビートたけしの「浅草」という出自に関係があるのだろう。浅草システムは終身雇用制や1940年体制が成立する前からあるのだから、ビートたけしはその最後の支え手だったことになる。ただ、たけし軍団はオフィス北野という会社組織を作ったことでその意味づけに変化が生じている。つまり中間形態と言って良い。

吉本興業の問題点は会社が国家権力と結びついたり芸人を「文化人枠」で売り出そうとしたことにあるのかもしれない。つまり表に近づきすぎてしまったのである。だが、その前兆は随分前からあったのではないか。会社形式にしスクールシステムという近代的な育成システムを一部取り入れた。近代的システムに拠っているのなら芸人にも請負契約や雇用契約などを結ぶべきだった。ところが実際には社員と芸人、つまり近代と前近代という二つのシステムがある。これが問題を起こしている。

もともと「劇場で表から切り離されていた」ところに演芸の楽しみがあったのだが、テレビはこれをお茶の間に乱暴に放り投げてしまった。そして皮肉なことに芸能番組の方がなくなりつつある。お茶の間は日常の延長なのだからそれは仕方がないことなのかもしれない。

その意味では報道・情報番組の芸人は非常に微妙な立ち位置にいる。日常の正義にどっぷり身を浸してしまうと「アナウンサー」になってしまい面白みに欠ける。かといってコメンテータのような専門性はない。どこか逸脱しつつ、かといって完全に踏み出さないという「綱渡り」を毎日しなければならない。あちらの世界に一歩足をかけつつこちらの社会にお邪魔するような感じだ。

だがそうしている間に「あちらの世界」が消えつつある。

もともと、映画や演劇の効用は「切り離された世界」そのものにあった。暗い世界に観客を誘い、その中で「現実にはありえない」ことを見せるというのが舞台芸術だった。我々はその中で現実ではできない体験をして現実世界に戻ってゆくのだが、何かを持ち帰る。その何かを「カタルシス(浄化)」と言ったりする。

カタルシスが成立するためにはある程度の時間と空間の区切りが必要である。私たちがスマホとSNSで失いつつあるのはそんなカタルシスが得られる区切りのある時間と空間である。非現実が「現実のきれい事」に侵食されてゆくという世界を我々は生きている。そしてあちら側の世界を「漂白しなければ」と思い込むようになった。

カタルシスが重要なのは、我々が心理的な抑圧を抱えているからである。こうした抑圧は罪悪感や社会通念によって何重にも蓋をされている。やがてそうした感情を認知することすら難しくなりやがて心理的不調や体調の不調を訴えることになる。つまり、我々は環境を漂白しても自分自身を漂白できないのだ。

我々は、白と黒の間の無数のグレーであり、この世の理屈が成り立つ空間とそうでない空間の間にも無数のシェーディングがあった。私たちが失いつつあるのはそういう自己認識だ。

犯罪的組織にもそれが言える。かつては極悪な真っ黒な人たちと正常な真っ白な人たちにの間には無数のグレーがあり、社会もそのことがわかっていた。だが、現代では普通に思えていた人たちがいきなり殺人事件を起こすと白が黒になったといっていちいち騒ぎになる。さらに、犯罪組織はどんどん暗い社会に追い詰められ凶悪さや狡猾さを増してゆく。我々は多様性を失って社会全体を漂白しようとしているのだが、果たして人間にそんなことができるのだろうかという疑問が残る。

いずれにせよ、我々は「厄介な部分を抱えた存在」ではあっても、それを晒すことを一切許されないという随分と難しい世界を自分たちで作っているのかもしれない。