治安維持法と選挙カー

今日も、選挙カーが候補者名を連呼している。今まで理由がわからなかったのだが、これは実は日本人に普通選挙をさせないための工夫のようだ。この戦前の取り決めが日本の戦後政治をいささかいびつなものにしており、今すぐ変えるべきだ。




この「普通選挙をさせない仕組み」を打ち破ったのがインターネット選挙である。現在、Twitterではれいわ新選組祭りが行われているのだが、このれいわ新選組祭りが街中で行われると思えばいい。するときっと「あれ、時代はれいわなのかな」と流される人が出てくるだろう。戦前の体制はきっとそのような勢いが怖かったのだろうし、実は今既存の政治家たちもこれを恐れているのかもしれない。

自民党が今の政治の仕組みを変えたがらないのは不思議ではないが、野党も公職選挙法の改正を望んでいるようには思えない。公職選挙法が改正され過激な政党が出てくると、なんとなく与党に反対して票を稼ぐというようなことができなくなってしまうからである。

これがいいことか悪いことなのかはわからない。選挙が積極的な住民参加により行われるアメリカの大統領選挙はもはやテレビのリアリティーショーとなんら変わりがない。

一方で、日本の参議院選挙や地方議会選挙は全く盛り上がらない。政権交代のような派手なトピックがない選挙は単なる「議員の就職活動」としかみなされないからである。どうやって選んでいいのか示せないのに「選挙に行くべきだ」と言っている大人の方がおかしいようにも思える。

公職選挙法の話に戻ろう。

選挙カーが名前を連呼しているのはそれ以外やってはいけないからである。例えば、戸別訪問も禁止されている。賄賂などを防ぐために禁止されているのだと思っていたのだが、今の公職選挙法は1925年普通選挙が実施されるのと同時に実施されたという。実は最初から普通選挙はこのような理不尽なルールのもとで行われているのである。

色々と考えたのだが、当局が「他人の目が入らないところで集まると<衆愚>は何をしでかすのかわからない」という怯えがあったのではないかと思う。そもそも普通選挙を実施したのは、大衆が選挙から排除されているという理由で共産主義勢力に付きかねなかったからである。取り込んで管理しようと考えたのだろう。

戦後になって当局が「庶民に恩典として選挙権を与える」という考え方はなくなった。治安維持法も廃止された。それでも日本が共産主義になることもなかったし天皇制打倒や体制転覆を掲げる人はいない。せいぜいNHKを打倒しろというのが「過激派」扱いされる程度のものである。

だから選挙カーで政策を連呼させても特に問題にはならないだろう。選挙カーで名前だけを連呼するやり方は「選挙など意味がわからず無駄である」という宣伝にしかならない。こんなことは今すぐやめるべきだ。

典型的なリベラルと思われる保坂展人世田谷区長の有名な「政治家も選挙カーのルールを知らない」という一文がある。リベラルなのだからルールの変更を提案しても良さそうなものだが、保坂さんですらルールを変えようとは考えないようだ。「国会議員が変えられないとは情けない限りだ」と言っているだけである。憲法にしてもそうだが、日本人はルールを提示されると「それを変えてはいけない」と思い込んでしまう悪い癖があるのかもしれない。

ルールを変えるためには「日本人が民主主義=選挙とどう向き合うか」ということを考えて合意を取らなければならない。オブジェクティブがあるから手段を検討しようという気分になるのだ。日本人には多分この「オブジェクティブ」という考え方がないのだろう。だからルールが変えられない。

前回の「イデオロギー論争」を見ていても、日本人は政策議論のようなオブジェクティブをめぐる議論を行わないことがよくわかる。代わりに集団の中で自分の意見がどの程度通りやすいかを確認するために政策が道具として使われているだけのように思える。マニフェスト選挙が根付かず選挙カーで候補者名を連呼するだけの選挙はそのことを嫌という程我々に教えてくれる。普通選挙といっても、普通の人達は排除されている。そればかりか「無党派層」とか「浮動票」といういささか侮蔑的なレッテルまで張られている。本来は浮動票が政策を選べるのが民主的な選挙のはずなのである。これはとてもおかしなことだ。