日本型土着民主主義とその限界

先日来、Quoraで表現の自由についてのコメントを見ていていろいろなことがわかった。今回はそれをキーワードとしてまとめたいと思う。それが「日本型土着民主主義」である。




西洋の民主主義は個人のイデオロギーに結びついている。これを集団にしたものがパーティーであり日本語では政党などと訳される。ところが日本では最初からイデオロギーが集団に付属すると見なされるようである。一つの人の中に複数の価値観が根付かないように一つの集団には一つの考えしか宿らない。これが西洋型と日本型の違いである。神話体系に倣って、渡来型民主主義と土着型民主主義と言っておきたい。

あいちトリエンナーレの件では、慰安婦少女像が「国が支援する芸術」としての権威を認められてしまうとそれについて異論が言えなくなると大変だということが問題になった。

この件について、憲法の話をしている中で面白いことを見つけた。表現の自由と言論の自由についての解釈を聞いていて「憲法が言っている検閲」は権力者という個人の圧力なのだなあ思ったのだ。つまりあれは渡来型民主主義なのだ。

朝日新聞によると河村市長は「俺ではなく日本国民がそう言っている」と表現して圧力をかけようとしたそうだ。日本維新の会は政治家の名前で「みんなを代弁」しようとしたのだろう。権限を持った個人と集団の関係が極めて曖昧になっている。

河村たかし名古屋市長から文書をいただきました。『表現の不自由という領域ではなく、日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない。厳重に抗議するとともに、展示の中止を含めた適切な対応を求める』と。要は行政の立場を超えた展示が行われていると。そして(日本維新の会の)杉本和巳衆院議員の名前で、作品を特定して『不適切であり、展示中止を求めます』と。どちらも判が押されているので、公文書でしょう。これについて、私の考えを申し上げたい」

「表現の自由は日本の民主主義の根幹」大村知事一問一答

つまり、渡来型憲法は権力者という個人を相手にしているのだが、実際には集団の空気により表現に圧力をかけようとしたことになる。こうなると憲法でこの問題が扱えなくなる。と同時に「みんなでなんとなく決めたのだからこれは民主主義であろう」と考える人が出てくる。これに憲法や個人の民主主義を持ち出して対抗しても最初から話がかみ合うはずはない。

ところがなぜか日本人は全員が「俺の正解」を持っていてそれを他人に押し付けたがる。実際には曖昧な事が問題なのだが、俺の視野からはそれが見えないのだろう。

また別の人たちは小泉進次郎と滝川クリステルが結婚することについて異論申し立てていた。首相官邸でインタビューに応じたことが反感を買ったようだ。首相官邸でインタビューさせたことで「次期首相候補」のような印象がついてしまう。考えすぎのような気もするのだが、実際に漠然とそう信じ込んでしまう人がでてきそうな気もする。テレビではなぜか「官邸に行ったのは偶然ですよ」というフォローまでしていた。

これも「村の祝い事」的な雰囲気があるし逆側の人たちから見れば「これが既成事実化してしまうのは困る」という気持ちもわかる。ここにも「村には一つの答えしかない」という確固とした信じ込みがあることがわかる。

この二つだけを見てもわかるのだが、世の中には正解というものがあり正解以外の生き方は許されないというような漠然とした世界観がある。さらに正解の生き方をしている人は正解でない人に圧力をかけて追い込んでも構わないという理解も一般的なものである。さらにこうした村の「空気」は構造がなくなんとなく決まるという共通点もある。これが日本型の民主主義である。

日本人にとって。人権や表現の自由は国際社会に着て言っても良い単なるお洋服に過ぎない。このお洋服をめぐり話が噛み合わない。

  • 自分たちの心情から異議を唱える多数派は空気によってなんとなくその場の雰囲気が決まると考えている。
  • 空気によって屈服を迫られる側は民主主義を盾にとって戦おうとするのだが実はその仕組みがよくわかっていない。
  • さらに民主主義というお洋服の仕立屋さん(憲法学者や法律家)はずっとお洋服の仕立ての話をしていて現実的な問題には興味がない。

土着型民主主義が成り立つのは空気によってなんとなく作られた集合体がなんとなくではあるが整然と並んでいるからだろう。議論をしなくても経験が同じであればなんとなく同じ結論が出る。日本の問題はこの集合体がなし崩し的に大きくなり新しい合意ができないところなのだろう。言葉で意思決定ができないのでいつまでたっても議論が収束しない。

Quoraでは「日本人が考える土着の民主主義というのは天皇制のことだろうが……」と言ってきた人がいたので、一瞬頭を抱えた挙句、そっと「中空構造日本の深層」のリンクを送っておいた。多分頭の中にある天皇制というのは西洋の絶対君主や立憲君主を念頭においた渡来系のお話に過ぎない。実際の日本は中空構造になっていて巨大な権力が一箇所に集中するのを嫌う。逆に巨大な裁定者がいてなんとかしてくれればいいのにとさえ思った。

日本人は大きなまとまりを作ることもできず、強大な権力者に従うこともなく、西洋のような話し合いによる民主主義を発達させることもなさそうだ。そうなると小さくて制御可能な集団を作ってそこに引きこもるのが最も良い解決策ということになるのかもしれない。

ところが「日本人」というありもしない集団ができあがっており「韓国と対峙しろ」などという人もいる。そもそもは小さな声の大きい集団だから純化欲求を起こした「反日刈り」に発展するのかなとも思える。河村市長が「全日本国民」を代表してしまうようなことだ。そこからはじかれる日本人もいるわけで、彼らは反日として処罰されることになるだろう。

そう考えると日本式民主主義もアメリカのトランプ流ポピュリズムもそれほど違いはないのかもしれないと思えてくる。大きな枠組みの変化についてこれなくなっているのである。