今はちゃんと走っているが壊れたら買い換えられない車としての日本社会

日本で政治議論が折り合わない理由を考えていて、思考が思わぬところに飛んだ。




まず土着民主主義というものをおき、日本では民主主義への理解が進んでいないのでは?と書いた。土着民主主義は西洋流の民主主義を自己流で理解したものだが原型は親密な集団に由来する村落型民主主義である。経験を今日融資している人たちの間で作られた民主主義携帯なので違いを乗り越える文化はない。このため制度が古びても相互調整して制度設計ができないのであろうと考えた。

さらに、土着民主主義と民主主義の二重思考があまりにも巧妙だったので、自分たちがどのような行動様式を持っているのかがわからなくなっているのではないかとも考えた。つまり他人と話し合えないどころか自分が何を考えているのかもわからないのではないかと置いたのである。

次に、システム論を考えた。現場保存欲求が強すぎるので現行システムは誰も対抗できずシステムの変更もできない。システムが制度疲労を起こすとカバーできない領域が増えてゆくのだがルールをハックして自分に都合が良いように利用することはできる。ルールハックが横行すると、反感が増えるのでこれもさらに話し合いをさらに難しくしているのだろうと考えた。これがかつてあった村落と違うところである。村落は具体的な制約なのだがゲームルールは人工的な制約である。

システムやゲームのルールを自己流に解釈するとうまく生き残れるがそこから零れ落ちると途端に困窮する。さらに真面目にルールを守ろうと考えるとそれも損をすることになる。ゲームのルールは単にゲームのルールにすぎないからである。この文章を書いている途中でQuoraに「憲法はゲームのルールに過ぎない」と書いたところほぼ黙殺された。一度作られたルールはなぜか神聖視されるという傾向もある。

今回はまた別の材料を見つけた。2019年参議院選挙の分析が出たらしい。思考過程がインフォグラフィックになっていてわかりやすい。「現場維持欲求」のもう一つの別の顔が見える。

分析は段階的に進む。まず、地域と年齢という属性で分析してみたがたいした傾向は見つからない。社会属性で分析すると大企業で働いている人は自民党を支援し高齢者の一部が立憲民主党に流れていることがわかるそうだ。一方で、フリーランスや個人事業主の中にはれいわ新選組に流れた人が多い。左派リベラルから「インテリ臭さ」を取ったのがれいわ新選組である。ただ、ここまで見てみても何がドライバーになっているかはわからない。

そこで将来の見通しについて聞いてみた。努力が報われると考えている人は自民党に入れておりそうでない人はれいわ新選組や立憲民主党に入れているそうだ。さらに将来の見通しが明るいと考えている人は自民党に入れていてそうでない人はれいわ新選組や立憲民主党に入れている。つまり属性ではなく心象で支持政党に違いが見られるのである。

記事はここから「日本は希望分断社会だ」と分析している。

この記事を読んでいて、分析から「左派リベラル層」が消えているのが面白いなと思った。記事は「高齢者は希望が持てない」としている。彼らはかつて現役層として社会党のリベラル思想を支援した人たちなのではないかと思った。比較的高学歴で朝日新聞を読んでいたような人たちである。この層が分析から消えてしまっているのだ。朝日新聞は多分高齢になったリベラルが読んでいるだけで、現役世代は「反日新聞」としてしか認知していないのではないかと思う。

高度経済成長期の左派リベラルは「今の社会を変えればもっと良い社会が待っている」という希望を持っていたように思える。インテリといっても東京に出てきて6大学と言われるような学校に入学できた程度のインテリなのだが、それなりの数はいた。東京の上位校にはフランス型の人権思想を教える法学校から発達したところやミッションスクールなどが含まれている。つまり高度経済成長期までは日本にはキャッチアップ志向があったのである。

多様性のある社会を作ろうというのはその一つの例だろう。だが、今回の立憲民主党のアピールがうまく行かなかったところをみてもこうした楽観論が現役世代に全く受け入れられていないことがわかる。リベラルは高度経済成長に由来するゆとりから生まれたのだから、かつての「インテリ」という階層が消えていることがわかる。あるいは西洋に追いついたら今よりもっと良い暮らしができるという理想が消えてしまったのかもしれない。キャッチアップ欲求がなくなり日本からはインテリリベラルも消えた。

この調査は山田昌弘の希望格差社会を参考にしているので「希望」と言っているが、実際には「社会がこれより良くなるだろう」という期待はないのではないかと思うし、そもそもそんな時代があったことすら忘れられているのではないかと思った。

例えていえばかつてあった社会は新車みたいなものだった。誰も壊れるとは思っていないからドライビングテクニックを磨けばもっと早く走れるのではないかと考えたのだろう。さらに車を買い替えるという選択肢も存在した。だが、日本が衰退し始めると「今の車が壊れたらもう買い換えられない」と考えるようになり「今の車でも十分立派だ」と思い込むようになる。かつての新車を知っていた人はこれを退廃だと思うのだろうが、そもそも新車を知らない人は困惑するばかりであろう。

ゆえに、山田昌弘の言葉を引用して「希望」と名付けるのはちょっと違うのではないかと思った。

さらにこれについて考えていて現役の「希望を持っている層」がなぜ自民党を支持するようになったのかがわかったような気がした。自民党というよりはインテリリベラルから票を奪いたかった人たちの不断のマーケティング努力があったのではないかと思う。これについてはエントリーを改めたい。