自民党の迷走する入試改革

安倍政権の政策の進め方がどんどん雑になっている。どうしてこうなったのか?と思うのだがカウンターになる選択肢がないためタガが外れているのかもしれない。今度は入試改革だ。受験生が各地で政治家や官僚に直訴するという事例が増えているという。だがお恥ずかしいことに全く知らなかった。




このニュースを知ったきっかけは柴山大臣が炎上しているというスポーツ紙の記事だった。表現の自由で問題になる発言をされたらしい。選挙演説でヤジってくる観衆を力づくで押さえつけたというのである。

ただこれもテレビではニュースとしては扱われておらずTwitterで知ったことをきっかけに何が起きているのかを調べる必要があった。

テレビはパンとサーカス状態になっている。面倒なことから目をそらし誰かを犠牲にして庶民の憂さ晴らしの材料を提供しているだけである。この日は防災情報そっちのけで韓国の政治スキャンダルについて長々と扱っていた。日本人は誰も傷つかないから安心して叩けるのだろうなあと思うが電波の無駄遣いでしかない。

まず見つけたのが英語の民間試験をやめてほしいというものだった。民間の試験を使って実用的な英語を覚えるという目的はそれほど悪いものではないと思う。TOEFLを勉強すればアメリカの学校に通える英語力がつく。そしてその英語はアカデミックイングリッシュと呼ばれる実際に役に立つ英語である。改革の趣旨は良かった。だが、そのやり方は乱暴極まりない。

記事を読むと都道府県によっては受けられないテストもあるらしい。民間の試験会場に行ってくださいというものだからである。これでは学生が躊躇するのも当たり前だろう。さらに選択肢が複数ある。大学側からするとお互いに英語の実力が比べられない状態になるわけで混乱するのは当たり前だ。

テレビがちゃんと扱わないからこんなことになるのだと思ったのだが、野党側が火をつけようとした形跡はある。Quoraで調べたところ6月にこんな回答が出ていた。「反対運動は起きているがどこの団体が主催したものかわからない」とするものがあった。野党側がいろいろ仕掛けたものの一つなのかもしれないなあと思う。これまで有権者を切り捨て続けてきた野党には炎上騒ぎを起こす以外に国民に訴える選択肢はない。そして炎上しない案件はすべて忘れ去られてしまうのだろう。結局当事者たちが混乱の最中に放り出されることになる。

そうなると当事者たちは直接声をあげるしかないのだが、日本では声をあげた人をルールブレーカーとして叩いていいという社会的風習がある。「真面目な庶民」の憂さ晴らしの道具になってしまうのである。

こんななかとんでもないことが起きた。柴山文部科学大臣に民間試験の廃止を訴える野次を飛ばした男性が取り押さえられたというのである。政府に反対の立場を取ることが多いい東京新聞はどんな野次だったのかを伝えているが、NHKは野次の内容や相手側の言い分は伝えず柴山大臣のコメントだけを報道した。そしてそれがとても恐ろしい内容である。

自民党の代議士がうっすらと信じている「自分たちは支配者でありどこまでの人権がお前らにふさわしいのかは俺たちが決める」という本音が見え隠れする。つまり天賦人権などこの国では単なる建前だと言っており、それをNHKは無批判で流している。入試改革も「俺たちが決めてやったんだから黙って従え」ということなのだろう。

柴山文部科学大臣は閣議のあとの記者会見で、今月24日に選挙応援のために行った街頭演説の際、「大声でどなる声が響いてきた」としたうえで、「表現の自由は、最大限保障されなければいけないが、権利として保障されているとは言えないのではないか」と述べました。

街頭演説でどなる声 柴山文科相「大声出す権利 保障されない」

表現の自由は誰かが保障する類のものではないし権力者が勝手に決めて良いものではない。特に権力にあるものが自身への批判についてコメントする場合には、かならずどんな批判だったのかを伝えるのが民主主義国家のジャーナリズムの基本だろう。しかしNHKはそのことが分かっておらず、またこれを受け取った視聴者たちもきっと何が問題だったのかを認識しないはずである。日本では民主主義は建前に過ぎないということになる。

柴山大臣は「大集団になるまで黙っていろというのか?」と反論しているが

そもそもそれが集会の自由である。大集団になっても権力がそれを差し止めるべきではない。民主主義には極めて戦闘的な一面がある。つまり「殺し合い」や「財産の奪い合い」はしないが、言論では闘争的になる可能性があるということである。

しかも日刊ゲンダイをみると野次を飛ばしたのは慶応大学の学生であったそうだ。その声に賛同をする高校生もいるが柴山大臣はそれを「威力業務妨害にならないように」と脅しているそうである。権力には黙って従え、さもなくば懲罰が降るぞと言っているのだが、それがそのまま問題視されないところまで我々の国は来てしまっている。

もちろん心情として対立を嫌う日本人が闘争的民主主義を全て受け入れる必要はないだろう。フランスや韓国など激しい民主主義の形を嫌う人たちは多いだろう。だが、少なくとも権力にいる人たちが「これを言ってはおしまい」だし、本音と建前を分けてしまうと何が問題なのかがわからなくなってしまう。

ただ、一歩引いた目で見るとちょっと違った景色が見えてくる。性急な改革の裏には「配下の国会議員を喰わせるためにはなりふり構っていられない」という事情もあるのだろう。もう利益誘導を隠していられる余裕はないのである。暴走寸前なのだが自制心は働かないだろう。民主主義は建前だから破っても良いと思っている人を止めてくれるブレーキはどこにもないのだ。