たまねぎとしての保守思想・反たまねぎとしてのリベラル思想

演歌と保守について考えている。演歌は古びた流行歌をリパッケージしたものであるという仮説をおいた。この仮説を置くと後になって「演歌とはなにか」が説明できない理由がわかる。つまり「よくわからないが、なんとなく演歌というものはある」という感覚を説明できるのだ。




ここから、もし演歌が純化運動を行えばそれは演歌の破壊になるだろうという予測が立つ。もともと寄せ集めなので純化すると自己否定につながってしまうだろう。ゆえに演歌は演歌の枠の中で新しいものを見つけ転がり続けるしかない。

今回は保守と演歌は同じものであるという仮説を立てている。ここから考えると保守が純化運動に走れば保守が崩壊するだろうという予測が立つ。

ここでは日本の保守はGHQが持ち込んだ民主主義に対して、古びてしまった戦前の党人政治家がでっち上げた擬似思想であると考えている。日本の保守政治が目指すのは国家社会主義の再構築である。戦前の議会政治よりは優れており戦後GHQが持ち込んだ民主主義よりは古びている。民主主義を信奉している人たちが保守の純化運動を戦前回帰・戦争への道だと考えるは当たり前のことであるが、当人たちは多分そうは考えていないであろうということもわかる。

演歌の担い手たちは実際にはジャズなどを基にして作られた西洋音楽である演歌を「日本の心だ」と信じている。同じように保守を信奉する人たちは戦時下の国家社会主義体制を「日本の心」だと信じるだろう。どちらもそのようにリパッケージされているからである。つまり日本の心は建前であり本音は自分たちの正当化だったということになる。だが生き残るのは建前の方なのだ。

現在の保守政治には西洋的な一神教志向が織り込まれている。しかし、その体制に戻ったとしても日本が再び偉大になることはできない。国家社会主義体制はその当時の状況に合わせて作られており、現在はそのような状況にないからだ。そもそも核になる主張がないのだから純化運動は失敗する。

保守は長い権力闘争の中で憲法改正をその核だと誤認するようになった。もともと保守合同(護憲派保守と改憲派保守が合同した)で始まった自民党は小泉政権下で「もともと改憲派だった」と信じ込むようになったと言われているそうだ。このように一度作られた箱は一人歩きする。実際に行われたのは官僚出身の政策通議員を駆逐し党内抗争が得意だった人たちが政権を掌握したということなのだが、一度勝利してしまうと今度は「本来やりたかったこと」を前に進めるしかない。

ところが核がない運動を維持する方法もあるにはある。外に敵を作ればいいのだ。

テレビを見ると嫌韓運動が様々なテレビ局で展開されている。その担い手たちは多分高齢者なのだろう。彼らは自己肯定感を求めて保守思想にシンパシーを持つのだが自分たちの根を探しても保守思想には行き着かない。彼らはありもしないものを探しているから敵が必要になる。

もちろん韓国に問題はある。韓国は日本との講和で得た金を元手に戦後復興を図った。ところが戦後復興を行ったのが軍事政権であり地域にも格差を作ったためそれに抵抗する運動ができた。彼らは当然うまく行かない理由を保守軍事政権に求めるだろう。それを投影して日本を攻撃する。実はこちらも対抗運動なので核がないかもしれない。そして、実はこういう運動はドイツ側でも起きているようだ。経済不調と不満がその根底にある。

「今日までドイツから大戦中の残虐行為への適切な賠償を受けていない」。ポーランドのモラウィエツキ首相は8月、独紙のインタビューで断言した。正式な請求はしていないが、議会の委員会が1日にも被害額の試算を公表する。地元メディアによると、8500億ドル(約90兆円)との試算が出る可能性もあるという

独・ポーランド、賠償で論争=侵攻80年、90兆円試算も

ギリシャで7月に就任したミツォタキス首相が29日、ベルリンを訪問してメルケル独首相と初めて会談した。ギリシャはドイツに対し、第2次大戦中のナチス・ドイツの占領下で受けた損害に対する巨額の賠償金を求めている。ミツォタキス氏は、経済危機からの脱却に必要なドイツからの投資を求める一方、国内でくすぶる「戦後補償問題」の進展にも期待感を示した。

ギリシャ首相、ナチス占領の賠償金に期待 独首相と会談

日本は保守運動(具体的には憲法改正)が進捗しない憤りから目を反らせるために嫌韓を利用するつもりだったのだろうが相手の「ど真ん中」に爆弾を放り投げてしまった。多分、ドイツの政治家はもっと冷静に見ている。一線を引いて反省を続けないと収拾がつかなくなるだろうということがわかっているのだろう。ただ、ドイツにもポピュリズムはある。いつまでも同じような「謙虚な態度」が続くかどうかはわからない。

さて、この一連の「保守の暴走」を見て民主政治が破壊されると危惧する人がネットには多いように思える。だがそれも心配しなくても良い。戦後の民主主義勢力というのは反政権である。彼らもまず「反政権」で箱を作って、そこに憲法や民主主義という理由付けをしているに過ぎない。彼らは自分たちを社会主義者・革新主義者・リベラルと自称してきたが、立憲主義はその最先端の実態のない箱の名前に過ぎない。どちらもありもしないものをあたかもあるようにして集まっている。それは虚空に響く反響のようなもので終わりがない。

今回収拾したのは「玉ねぎの皮をむいていたら実は皮が本質だった」というような話である。つまり何もないのだから何かが壊れる心配はしなくても良い。単に新しく作ればいいだけの話である。極めて単純な話なのだ。だが、運動に没頭する当人たちにはそれがわからない。その結果、ありもしない問題に時間を浪費することになってしまうのである。