入試改革議論 – 保守の議論はなぜ乱暴なのか

大学入試「20年度は大きな改革でない」 下村博文氏という記事を読んだ。彼らに教育を任せておいたら数年のうちに国の教育はめちゃくちゃになるだろうなあと思った。この短い文章を読むといわゆる保守と呼ばれている人たちの問題点がよくわかる。相手をバカだと思っており反省しないのだろう。




日経新聞は「2020年の入試改革が混乱している」という認識を出発点にして教育行政に大きな影響力を持つ(と思われる)下村さんに話を聞いたのだろう。そこまでは良かった。下村さんは改革会議のメンバーであり文部科学大臣として工程表も作ったそうだ。いわば当時の責任者であり関係者である。

しかし下村さんは自分たちに問題があるとはこれっぽっちも思っていないようだ。だから記者との間で話が噛み合わない。ただ日経新聞も全くツッコミを入れていない。多分政治部の記者は教育には全く興味がないに違いない。「ああそうですか」とまとめてしまっている。

この記事は単なるお知らせであり批判的なジャーナリズムにはなっていない。議論は読み手が勝手にやってくださいということになり、視点を提供するというジャーナリズムの役割は放棄されている。反省がないのでこの問題はそのまま走り続ける。何年かやってみて効果が出ないといってまたシステムを変えるのだろう。

入試改革のもともとの意図は理解できる。採点のやりやすさばかりを考えて選択肢問題が「横行」しているという批判はよく聞くからだ。「自発的に考える人材を探すためにはそれではダメだ」という点までは理解ができる。

しかし普通に考えるとまず問題意識を持った政治家が高校や大学などに働きかけたうえで入試制度ではなく教育プロセスを変更する必要がある。政治家は変革管理のリーダーであるべきだ。変革管理のためには教育の担い手たちのコミットメントが必要であり、コミットメントを得るためには彼らに対して「支援者であり敵ではない」ということを示さなければならない。

ところが入試制度を変えれば世の中がすべて良くなるだろうという乱暴な認識があり、さらに相手に説明をもとめて改革への協力を呼びかけようという気力もないようだ。さらには高校の教員組合は潜在的な政敵であるという思い込みもあるのかもしれない。

改めて言語化してみるとめちゃくちゃだということがわかるのだが、記者があまりにもきれいに記事をまとめてしまっているので問題点が全く見えない。めちゃくちゃが「クオリティペーパーの立派な記事」に見えてしまうという点にこの国のジャーナリズムの抱える恐ろしさがある。日経新聞がこう書いているのだから問題はないだろうということになってしまうのだ。

もちろん高校にリサーチをしたり要望を聞き取ったりしてボトムアップで変革管理に取り組む方法もあるのだろう。多分、高校の側は自分たちの要求を押し付けるばかりで外からの変革は好まないだろう。「予算と人が足りない」という話になるはずである。実際に先生に話を聞くと「自分たちはいかに忙しく周囲から理解されていないか」という話になる。大学側も同じである。大学の先生たちもこと教育に関しては世間はバカだと思っている。実業の世界を知らないので企業の要望も分からない。こうした「分断された社会」では政治家の役割は本来はとても大切である。だが実際は政治家も分断された村を作っている。

例えば日経新聞のこの記事は政治担当記者が書いてまとめたのだろう。学校教育の実態はわからないから学校教育についての質問ができない。互いが互いのことを理解しようという気持ちが全くない。というよりそもそも日本にはお互いがお互いを理解する公共というものがない。その分野に特化した専門バカが跋扈する国なのである。

さらに下村さんは恐ろしいことも言っている。

「海外の大学で入試に学力テストを課すところは少ない。日本も全員がテストを受ける必要はなくなるだろうが、一気に無くすのはリスクがある。まずはより良いものに変えていく」

大学入試「20年度は大きな改革でない」 下村博文氏

下村さんのいう世界がどこの世界かは知らないが、アメリカの大学にもSAT®のような学力テストはある。留学生はTOEFLも受ける。授業を受けるためには必要ラインの学力があるからである。ただ、これは真面目に勉強すればそれなりの点数は取れるので、SAT®差別化はできない。下村さんや日経の記者がわかって書いているのか、それともわからずに書いているのかがわからないし、日経の読者がこれをどうとらえるかもわからないのだが、これでは学生の水準を図るテストが全く要らないように見えてしまう。

さらにテストは公平でなくてもいいなどと言い出している。なぜ日経新聞がこの意味を聞かなかったのか不思議で仕方がない。例えばこの議論だと女性の点数を低くして男性の医者ばかりを入れる大学は適格ということになる。保守と呼ばれる人たちが差別を正当な区別だと考えていることは知っているが、これはあまりにもあけすけだ。しかし、これが下村さんの持論なのだろう。

「大学には、一点刻みではない多様な入試をしてほしい。ただ、『公正公平ではない』という社会の批判に耐える覚悟と決意が大学にあるかという問題はある」

大学入試「20年度は大きな改革でない」 下村博文氏

「大学入試は公平公正でなければならないが画一的である必要はない」ならばわかるのだが、言われたまま書いて「こう言いましたから伝えましたよ」ではあまりにも無責任だ。

ただ、専門バカの世界では、聞き手側が吹き上がって炎上すれば「受け取られ方が悪かった」という言い方で済ませてしまう。誤解はすべて相手のせいであるという反省しない社会なのだ。

問題意識のなさ、多様性への無配慮、共感能力の低さなど日本の政治家は議論を先導するのに向いていない。同じ経験をした人たちに囲まれているため簡単な対話にすら慣れておらず、従って教育のような複雑な問題はそもそも扱えないのだろう。

もし下村さんが変革マネージャーとして入試改革を真剣にやろうとしているならこんな乱暴な話になっているはずがない。関係者のコミットメントが必要なのだからそれなりの説明をしているはずである。下村さんには日本会議に語りかける程度の配慮を持ってインタビューに臨んで欲しかった。

彼は明らかに「現場がバカだから俺たちのやり方が理解できない」と考えていて「言い放っている」。こういう人たちが大勢いて憲法改正や国会運営でも同じような乱暴な議論を展開し、周囲を怒らせたり戸惑わせたりしている。同じ経験をした仲間に囲まれるうちに自分たちだけが正しくて相手がバカだと信じ込むようになったのが保守という病なのだろう。