政治的な黄昏を生きる我々は安倍政権批判も政府批判もしなくなった

昼間のワイドショーがおかしなことになっている。もともと「韓国が日本に逆らっている」という話だった。それが「韓国のスキャンダル隠しだろう」ということになり、そのスキャンダルとはチョ・グク氏の疑惑だということなった。




ただ、チョ・グク法相候補の国民審査会(要は記者会見のことだ)くらいから疑惑そのもの報道するようになり、記者会見や野党の審査会の話をやりだした。ある人は韓流ドラマのようだといい、別の人はなぜこんなものに日本人は関心を持つのかと困惑している。メディアが視聴率に編集権を譲り渡したために自分たちが何のために何を報道しているのかがわからなくなっている。

この絵面がロッキード事件に似ているなと思った。小佐野賢治の「記憶にございません」が流行語になるほど注目された事件なのだが、視聴者は事件そのものではなく右往左往する関係者たちを楽しんで見ていたのだろう。この手のワイドショーを見ているのは高齢者なので昔のようなニュースを懐かしんでいるんだろうなあと思った。例えていえばサザエさんを見ているような感じである。

ではロッキード事件時代と今の違いは何だろうか。ロッキード事件が騒がれたのは政治家や国のリーダーは清廉潔白でなければならないと信じられていたからである。つまり政治家に期待値がありそれが裏切られたから騒いだのだ。だが今の人たちは安倍政権にそのような期待は抱かない。いろいろやってみたが「結局ダメだった」から行き着いたのが安倍政権だからである。我々は政治に期待しなくなったし日本の先行きに確信を持てなくなっている。

もともと、ワイドショーの目的は世間の敵を作って処罰することにある。つまり報道ではなく人民裁判ショーか古代ローマのコロシアムだ。ただ、そのためには次から次へと敵を作り出さなければならない。ただ、それができるのは「自分たちの生活はまともに機能しており、これからも機能し続けるはずだ」という確信があるからだ。

例えば高齢者がアクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こしたとする。テレビはこれを悪者として裁こうとするのだが、考えれば考えるほど扱いが難しくなる。老いて行く自分たちを見つめなければならなくなるからだ。視聴者の不安と番組の中の出来事がリンクしてしまうと、ワイドショーこのコロシアム性がなくなる。つまり観客席とコロシアムの間の敷居が消えてしまうのである。

最近、統計不正について報じなくなった。国民の側に「頑張ればなんとなかる」という見込みがあれば政府批判をしているはずである。ところが「この先日本には見込みがない」という認識を持っているとそれができない。「落ち目の国に暮らす」という現実を見ないためにはテレビの電源を落とすしかない。だからテレビはこの話題を扱わなくなった。

最近、アルゼンチンでまたデフォルト騒ぎが起きているそうだ。アルゼンチンでは統計のごまかしが横行しているという。だが、そうした国はアルゼンチンだけではない。日本もよくあるありふれた罠にはまっているだけだ。特別な国ではなくなってしまったのである。

もっともこうした強引な統計手法の駆使は、トランプ氏が先駆けというわけではない。中国政府は、GDPを引き上げ、公害汚染関連データを押し下げる方向で算出していると長らく批判されてきた。さらに最近は、民間機関が不動産価格や景気動向のデータ公表をしないよう指導しているもようだ。インドやトルコ、アルゼンチンの当局も、統計を良く見せるため計算方法を変更したと後ろ指をさされている。

コラム:恣意的な統計作成に潜む「危険な罠」

外交も行き詰っている。ロシアを訪れている安倍首相がプーチン大統領にへつらうような発言をしたがプーチン大統領は薄ら笑いを浮かべただけだったそうだ。さらにプーチン大統領は歯舞の式典にわざわざビデオで参加したそうだ。歯舞の人口だけを見ればロシアから見てそれほど重要な地点とは思えない。日本を挑発するためにわざとやったのだろう。日本などどうでもいいとロシアは考えており、我々もまた「あの総理では仕方がないな」と考えるのでそもそもニュースにならない。

だが、これを特に報じた新聞社が二つあった。読売新聞と産経新聞である。

安倍首相はプーチン大統領と親しいというが、会談を重ねた結果がこの仕打ちである。島を返さず、日本から経済的実利だけ引き出そうとするプーチン政権の正体を認識しなければならない。安倍首相は首脳会談など開かず、さっさと帰国した方がよかった。

【主張】日露首脳会談 どうして席に着いたのか

朝日新聞や毎日新聞は「外交の安倍」などという言葉は信じていないのでこんな書き方はしない。日経新聞も含めて淡々と建前の会話を伝えているだけである。逆に産経新聞は外交の安倍という言葉をまだ信じていて日本に国力や外交交渉力があると信じているのだろう。だから席を蹴って帰れと言った。つまり批判は期待の表れである。だが、もうすぐ産経新聞もそれを言わなくなるだろう。

最近の世代は「中高年はなぜ政府・政権批判ばかりするのか」と反発しているという話をよく聞く。それは実は日本には実力がありそれが発揮できていないと感じていたからである。つまり日本に期待があったのだ。

しかし、日本に期待がなくなると何も言わなくなる。言っても無駄だからである。現在の世代はそもそも「日本が衰退する」という予言に呪われて生きているので批判が受け入れられない。あるものは政治に全く関心を寄せなくなり、あるものは極端な擁護に走る。我々は政治的な黄昏という新しい時代を生きていることになる。民主主義に何の期待もしなくなった社会である。